大阪日日新聞コラム『澪標(みおつくし)』連載


2006年12月29日連載スタート

大阪日日新聞のコラム『澪標 (みおつくし)』 (全5回)

執筆  氏田 耕吉



●<第1回:音楽嫌いを『アンカリング』>

つい最近、わたしの話を聞いていただいていた、あるコンサルタントの先生から「それは『アンカリング』ですね」という解説を受けました。 少し具体的に話 すと、わたしはカラオケがめちゃくちゃで駄目です。 しかし、これには本当にたまらない思い出話があります。なぜ、わたしがカラオケが駄目か? 

これはつい最近分かったことですが、小学校の三、四年の時のF先生という音楽の先生にあります。 当時、小学校では講堂にみんなで並んで歌を歌うコーラスの発表会がよくありました。 
先生がピアノを弾きながらの練習の時に、「氏田君、君の声、大きいから、ちょっと一回歌わないでくれる」となります。 そしてわたし以外のみんなが歌うと 「OK、OK、氏田君、今度の発表会、あなたは口だけ動かしてくれる」って言われてました。 それも一回ではありません。

わたしはあれから音楽が大の苦手になり、成績も良くなかったのです。 また、これは別の話ですが、わたしは子どもの時によく病気をしたために、母親がだんだん過保護になりだしました。
父親もそんなわたしをふびんに思ってたようです。 いろいろな薬をのましてくれたり、いつも本当にいろいろなことをやってくれてました。 

ところが、うちの母親は口癖で、「一生のうちで使えるお金は決まってる。若いうちにぎょうさん使ったら、年いって貧乏になる」とよく言ってました。 それである日、母親に言いました。
「僕ね、こんなに薬ばかりのんでてええんかな? 年いって病気になって働かれへんようなった時に、薬も買うお金もなくなったら、生きていかれへんやん。お母ちゃん、もうやめてーや」って! 

そしたら、母親から「あんたは一生お金には困れへん子や」って言われました。 その上、父親にも「おまえは普通の人間と違う、おまえはやったら何でもできるんや!」 そういうことを言われてました。

分かりにくいかもしれませんが、これらが「アンカリング」っていうことらしいです。

つまり、実はわたしは子どもの時から、「おまえは一生お金に困れへん」とアンカリングされてきたのです。

実際は全然裕福じゃないですが、「わたしは一生お金に困らない」。 間違ったことをせずにきちっとやってたら、わたしは一生、お金に困る人間じゃないと信じてます。

そしてわたしは「必ず何でもやりきれる男」なんです。 それは父親がわたしに教えてくれた、
今のわたしの人生を支えてくれてるものです。


このアンカリングのキーポイントは、一番愛する人にされることだそうです。 ーーそれも気付かずに!


例えば、自分の子どもを「ばか」にするのは簡単です。 毎朝子どもを見て、母親が「あほやな、おまえは。ばかやな」って毎回言ってみる。 その子は「アンカリング」されて必ず「ばか」になっていくのです。事実そうなんです。

わたしは母親からも父親からも、「ばかや」とか「あほや」と言われたことは絶対にないです。
わたしは自分の子どもにも言いません。

しかし、今は、知らずにか「あほやな」と頭をたたいたり、「ばかやな」ってやってる親御さんが多い。 「ばかや、あほや」と言われて、それも自分の一番愛するべき親からそういうことを言われたら、子どもなんて絶対そうなってしまいます。ーーやめてほしいですね。

それと、音楽の先生がこれを読んでおられたら絶対、変な、へたな歌でも子どもには歌わせてやってほしいと思います。


~執筆者紹介~

氏田 耕吉

1950年大阪市生まれ。
大阪府立阪南高卒、車業界へ就職。
73年関西大学社会学部(二部)卒、同時に結婚、(2男、1女)。
大阪府内に3カ所のショールームと整備工場を経営。
車業界の諸団体の役員を引き受ける傍ら、地元でも世話役として活動。
83年には帝塚山街づくり交流会を結成、
以来20年以上幹事として街づくりの活動やイベントのリーダーを務めている。

(2006年12月29日掲載)



●<第2回:私の 「決めた者(モン)勝ち」

昔、子供の頃に、「速い者(モン)勝ち」とか「言うた者(モン)勝ち」などと言い合っていた覚えがあります。

今日は、私の「決めた者(モン)勝ち」の話です。

私は子供の頃から、自分は大きくなったら何になるのか、はっきりした事が分からないまま社会に出ました。出たと言うより父親が亡くなった後、関西大学の二部学生(夜間)になったので、通学できる条件上、
無理の効きそうな亡父の創業した自動車整備工場に入社した訳です。

父親からは自動車整備の自慢話(?)を、たっぷり聞かされていましたし、元来私も機械いじりが好きだったので、当然の成り行きでもありました。

話は、省略しますがその2年後、会社を一時閉める事態に陥りました。(興味の有る方は、弊社ホームページ「社長の講演2」http://www.ujita.co.jp/2koen1.htm をご覧下さい。)

お客様にも、お取引先様にもご説明をしての事ですが、ちょうどそんな折の事です。 朝早くに「車が出先で動かなくなった」と近所の早嶋勝さんから自宅に電話が入りました。 私も結構器用な整備士で、出張に行ってすぐ動く様に出来ました。

その時、私に「何んで会社を閉めてるの?」と聞かれました。 私は、「もう自動車屋はあきませんねん。
仕事は大変やし、汚いし、しんどいばっかりです。 夜学やけど大学出たら勤めに行こうと思てます」
すると、「じゃ、どんな仕事が良いの?」と聞かれ、私は「ホワイトカラー、早嶋社長のような仕事」と答えました。 その方は、立派な会社をいくつも経営され、スマートな生き方をされてました。

「いや、私は君の方がええと思うよ。 だって車が動かなくなって困ってる時に来てくれて、直してくれる。
人の出来ん事して、人の役に立てる。 そんな仕事は素晴らしいん違う?」

その言葉で昔、父親が「人様のお役に立つ。 そして、その自分の仕事でお金が頂ける。 こんな仕事はええで」と、よく言っていたのを思い出しました。

更に、「仕事は多分何をしても一緒。 他から見て良いと思っても、どんな仕事でも大変。 だったら今の仕事が良いと思うよ。」と、言われました。

たったそれだけの事でしたが、私はその時に「自分は一生、自動車屋」と思い始めたのです。 自分で決める事で、何か吹っ切れた思いで、その後は迷ったり悩んだりしなくて済みました。

それからも事業の拡大・縮小も含め、悩み尽きない事も多々ありました。 平成3年のそんな折にも、
モスバーガーの故、櫻田慧さんに講演会の司会が縁で、励まして頂いた事が有ります。

その時は「一大決心」という言葉を頂きました。 「何が何でも成功させる。」「何が何でもやり通す。」
本気の決意の必要性でした。

いずれも、今となれば「決めた者(モン)勝ち」この言葉に要約されます。

(2007年2月20日掲載)




第3回:街づくり二十年(上)~人が街をつくり、街は人をつくる>

1983年(昭和五十八年)、阪堺上町線帝塚山三丁目駅前に有った故中村画伯邸の跡地の塀がつぶされた。その場に残された蔵の事務所前にいきなり大きな看板が立った。

「帝塚山らしさってなんやろか?」ただそれだけが書かれた看板に、私は生まれ育った帝塚山への挑戦的なメッセージを感じた。 吸い込まれる様に入っていくと、現在同地に立つ商業施設「ミューズコート帝塚山」を計画したR&Dアソシエイツの小山雄二さんが居た。

その日から「帝塚山はこのままで良いのか、将来どう在るべきなのか」、と連日のように地域外出身の開発スタッフと話し込んでいく。 後から考えると若者のとりとめのない話だったのかも知れないが、私は生まれ育った帝塚山が好きだった事に改めて気づいた。 

その後流行のようになった「街づくり」という言葉を聞いたのもその時が初めてだった。 近所の三笠寿司の多田嘉幸さんを加えた三人で街を考える会はスタートする。 その後は最初の三人が次のメンバーを誘い、六人に、六人が十二人と増えていき、会合を重ねていった。 

帝塚山に何らかの関連を持つ人達が増えてきて、やがて出来上がったのが「帝塚山街づくり交流会」(略称TMK)だった。 集まりには肩書や思想は関係無く、自由に「街づくり」への想いを語る。会則、会費、会長などは一切無し、

ルールは「政治宗教抜き」だけだった。 各自をよく知り合う事から始まり、ディスカッションやシンポジュームなども行った。 会報誌の代わりに「帝塚山流通新聞」なるものを作り、自主採算で今も発行を続けている。


そして1986年(昭和六十一年)十二月のTMKの忘年会で、「走れぼくらのチンチン電車」が発案される。 当時始まっていた阪堺電車の車体広告を使った 企画である。 小学生を対象に「電車の絵画コンクール」を行い、その一点を実際の電車に描いて二年間走らせようというものだった。 

TMKの有志による「走れぼくらのチンチン電車」実行委員会(委員長多田嘉幸)が発足したのは、年の瀬の迫った十二月二十五日だった。 テーマは「子供た ちの夢を乗せて走るチンチン電車、将来想い出してくれるだろう自分達の創ったチンチン電車、そして自分達の街」と決まった。

TMKメンバー企業が電車広告を協賛いただける事はすぐに決ったが、その後が続かない。 しかし実行委員各自による地道な運動の結果、実に多くの方々の協力でやっと実現できることとなる。

人づてにお願いし、何とか2月5日に朝日新聞夕刊の社会面トップで取り上げられる。 これをきっかけに四大新聞をはじめテレビ、ラジオ各局の取材が始まり、大きな話題となった。

全国から集まった五八七二点の応募から小学六年生の沢田美穂ちゃんの絵が決まり、4月5日から二年間走らせることができた。 そして、これをきっかけに 「帝塚山街づくり交流会(TMK)」の名前は一気に知れ渡り、メンバーが増え、更に次の活動へと繋がっていくことになるのだった。(次回に続く)

(2007年4月2日掲載)



●<第4回:街づくり二十年(中)~住民による、住民のための街づくり>

帝塚山街づくり交流会(略称TMK)の初めてのイベントとなった「走れ ぼくらのチンチン電車」。その表彰式のあった、1987(昭和62)年はTMKのもろもろのイベントがスタートする年となった。

5月には阿部野神社で「阿部野薪能」が始まる。これはTMKの活動とはいえないだろうが、当時氏子青年会会長を務めていたわたしも第1回実行委員の末席をけがすこととなった。

氏子青年会は、地域の町内会や子供会の活動を気にされていた中塚昌宏宮司(当時は禰宜職)の声掛けで結成された。 従来の氏子総代会活動とは別に「子供 みこし」を作り、担がせることから始まり、数年後には念願の「子供だんじり」まで巡行させていた。 事情で青年会は解散したが、「子供だんじり」は「阿部 野だんじり」と名前を変え、「帝塚山まつり」の一環として現在も子どもたちがえい航をしている。

さてその「浪速津南阿部野薪能」は今年も5月17日(木)鎮守の森、阿部野神社境内にて、
第21回(委員長加地靖通)を開催する。

問い合わせは電話06(6661)6243、薪能後援会事務局へ。
ホームページのアドレスは次の通り。http://www.abenojinjya.com/


話は相前後するが、その年の8月にウジタオートサロンの展示場スペースを使った「おーきに祭」が行われた。 これが現在、21年続く「帝塚山まつり」につながっていくこととなる。
最初は多種多彩な業種の方々に集まっていただき、フリーマーケット形式で地域還元、感謝の意味を込めての開催だった。

「帝塚山」という地域柄、「打てど響かず」かと想像していたが当日は予想を超えた反響と動員数に人々は驚くこととなる。 その中の一人に池田正仁さんが おられた。 彼はジャズをはじめとする音楽に造けいが深く、以前より地域を挙げてのライブストリートを考えておられた。

「おーきに祭」当日、熱っぽく語られたその思いは同年11月、第1回帝塚山音楽祭(委員長森一貫)としてスタートすることになる。 第2回目からは5月 開催となり、第21回(委員長橋本秀信)の今年は5月26(土)27(日)の2日間、熱心なスタッフたちにより開催される。

今回は、(1)ライブストリート(有料)(2)万代池公園野外ステージ(入場無料)(3)万代池ラウンドバザー(同)(4)コミュニティー広場(同)が催される予定である。

問い合わせは電話06(6678)0022、音楽祭事務局へ。
ホームページのアドレスは次の通り。http://www.tezukayama.com/ongakusai/


さて話は戻るが、88(昭和63)年には「帝塚山カップゴルフ選手権大会」がスタートする。これはゴルフを通じた地域住民の交流の場がコンセプトだった。

第1回は地元の故大屋政子さんが理事長だった「室生ロイヤルカントリークラブ」(現ムロウ36ゴルフクラブ)で開催された。 その後は地域外からの参加 者も増え、開催会場もいろいろと変わった。 第20回記念大会(委員長前山村雄)の今年は11月3日に、その「ムロウ36ゴルフクラブ」で計画されてい る。

問い合わせは電話06(6627)1590、同事務局へ。


これらの街づくりイベントは行政や企業の主催とは違う。企画から運営まですべてを住民である実行委員が、参加する住民のために行う。 それをもって双方の住民はさらに親密になる。
これこそが「街づくり」の本来の原点で、スタートではないだろうか。



(2007年5月15日掲載)



●<第5回:街づくり二十年(下)
~十年偉大なり
、二十年畏るべし、三十年にして歴史なる~>

帝塚山地域には、恒例化しつつあるいくつかの大きな行事がある。

毎年1月下旬に行なわれる帝塚山街づくり交流会(略称TMK)主催の新年互礼会が1年のスタートだろうか。 次に続く各実行委員会による行事は、5月の 「阿部野薪能」と「帝塚山音楽祭」、そして8月の「帝塚山まつり」、11月の「帝塚山カップゴルフ選手権大会」となる。

今年も5月の「帝塚山音楽祭」は6万人超の動員で大盛況に終わった。そして早くも8月の「帝塚山まつり」や11月の「帝塚山カップゴルフ選手権大会」に向けて、各実行委員会は準備を始めた。

昨年6月、TMK主催で「街づくり二十周年を祝う会」を催した。 長い年月を経た街づくり活動に携わった人達で100名予定の貸切会場は、定員オーバー、人であふれた。


こんなに多くの方々に、集まって頂けたのは何だったのか。そう、皆さん「街に惚れている」のだろう。かって、亡父の結婚式での祝辞を母親から教えてもらった事がある。

それは「男の三惚れ」、つまり「住む所に惚れ、仕事に惚れ、女房に惚れよ。」という話だった。 自分が生活や仕事をする、その場所に惚れる事はすばらし い。 そう思えばこそ、この時もたくさんの人々が集まられたのだと思う。 人前で自信を持ってこのスピーチをしていた父親を誇らしく思っている。


諸々の行事について、私は消化型の行事運営は好きではない。 常に参加したくなるような企画を、協力したくなる運営で進めたく思っている。 しかし、実はこれが大変難しい。

かつて、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんから「十年偉大なり、二十年畏るべし、三十年にして歴史なる。」と教えて頂いた。

この「街づくり活動」も初めの頃はどうなるものかと思っていたが、十年で形は出来上がった。 そして二十年、これはまさに「畏るべき」ことだ。

しかし、三十年にして「歴史」となり、続くためには次代を担う人達が必要だ。 世の常かも知れないが、各実行委員会でも、この後継者問題に苦慮している。

帝塚山まつりの「子供みこし」や「子供だんじり」そして「だんじり太鼓」も20年経ち、数年前から、その子供達の「帝塚山青年団」が自然発生(?)した。 さらには「帝塚山青年塾」も出来て、実社会をテーマに人生塾のような自主勉強会も始まっている。

これもまさに10年単位での活動になりそうだが、継続していかねばならない。

今までは我々の世代が街づくりの第一線で活動してきたが、これからは、その次世代に自ら活動する若者を育てる役割をせねばならない。 それこそが三十年と いう歴史を作り、又、更なる継続を可能にする。 長い歴史を望むならば、年齢とともに役割を変え、交代する時期が必要だ。


「人生二度なし」(森 信三)、
人として生きた証しを刻む為にも、次の街づくり活動に向かいたい。    只管感謝 


(2007年6月29日掲載)

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