弊社会長の講演 <その1>


「第13回 天衣無縫の会」 より 「人生万事、塞翁(さいおう)が馬」

講師  氏田 耕吉

●<第1回:はじめに>


司会者:本日のご講演をお願いする講師の先生をご紹介させていただきたいと思います。ウジタオートサロンという輸入車販売会社の社長、氏田耕吉様でいらっしゃいます。出てきていただきますと、まずその笑顔の素晴らしさに皆様お気付きになっていただけると思います。



私の存じ上げている方、「天衣無縫」に関わられる方は皆さん笑顔が素晴らしい方ばかりなのですが、氏田様の心の底から沸き上がるような笑顔を見ていただければ、「すごい」の一言だ、という感じがいたします。 私も氏田社長のように湧き出るような笑顔というものをいつも心がけたいな、と思っております。



「天衣無縫」の目指すものとしては、人間形成、それから地域浄化、政治刷新と3つあるわけなのですが、氏田様は今申し上げました通り、笑顔の素晴らしい、即ち人物ができあがっている、というふうに思います。



また、常々帝塚山地域の地域活動として、「帝塚山まつり」とか「帝塚山カップ」「帝塚山音楽祭」等、意欲的な活動もなさっています。



昨年の中田宏衆議院議員(注:現在横浜市長)の出版記念パーティもこの場所で行われたのですが、その時にも鋭い質問を交えて司会をされる等、政治にも物申していらっしゃいます。



正に「天衣無縫」の今年最初の講演の先生としては打ってつけ、と思っております。必ず、元気な、心の躍動というものを感じていただけると思います。 長いご紹介になりましたけれども、早速氏田社長にお話をお願いしたいと思います。では氏田社長、よろしくお願いいたします。



氏田:おはようございます。 過分なご紹介をいただきましてありがとうございます。今日は久しぶりに長いお話をさせていただけるということで、非常に緊張しております。



小学生ぐらいの時に学芸会で舞台の上に立ったことがあるのですが、立ったときに両脚がガクガクと震えることがありました。 今でも覚えているのですが、本当にドキドキと緊張していました。



また私がそんな小学校5年生ぐらいのときに同じクラスにすごく気の合わない女の子がおりました。今はもう名前も何も覚えていないのですが、その子がいつもクラス会などで胸を張ってすごく自信を持ってしゃべるのが、どうも気に入らないんですね。



何とかしゃべり返してやりたいな、と思って、「ドキドキ」しながらぱっと手を挙げて、勇気を出して、クラス会で話をするようになったことがあるのです。
それがきっかけで、ドキドキしていても「はい」と手を挙げて、意見を言ったりしました。それが今のようになれたんかな?と、印象に残っています。



今日この講演をさせていただくというのは、以前からお話をいただいていたのですが、「天衣無縫」では素晴らしい講師の先生が続々とお話しされている中で、私のような者がお話しをするというのは非常に場違いな気もいたしまして、ずっとご辞退申し上げていました。



しかし、せっかくのチャンスと思いまして引き受けさせてもらったのですが、久しぶりに緊張しました。
昨日も簡単なテーマ原稿を作っていたのですが、書いているうちに大学ノートに4枚ほどにもなってしまいました。さらにずっと細かく書いていたらだんだん分からなくなってきて、夜眠れないし、大変でした。



12時になるけど明日の原稿ができていない、ここまできたら早く寝なければ仕方ない。
睡眠不足のほうが大変だろうな、と思って、寝ようと思ったのですが興奮していて眠れない。それでお酒を飲みました。 1杯だけで良かったものをちょっと酔いが足らない、ともう1杯…。



「もう、ええか」と思って、そのうちテレビを見始めまして、これを見て、寝て、早く起きようと思ったら、今朝は何と4時頃目が覚めました。
今、起きてまた睡眠不足になってしまってはいけないな、と、またそのまま寝てしまったのです。気が付いたらいつもどうりの時間でした。



こう喋りだして、いつも思うんですが、実はすごく緊張しています。皆さんは気づかないかもしれませんが、緊張しています。
しかし私だけではなく人前で話すのはきっとみんな緊張するものだと思うのです。ところが、その緊張していて、舞台に上がってお話しをしたときに、脚が震えるとか、心臓が高鳴るとか、顔が赤くなるのを通り超える時というのがものすごく快感なんですね。



その時の快感というのが1番気持ちが良くて、脚がガタガタと震えて、そして話しているうちにだんだん自分の気持ちが高ぶってくるんです。
そういう経験を1回すると、例えば今日は30~40人ということですが、それを乗り超えると、そのぐらいの人数だったら自分はできる、と思うわけです。500人でも1000人でも同じです。



これはケーススタディというか、「成功の反復」と言うものですね。
そういう場面に遭遇し、経験したら、人間というのは何でも、どんどんできるようになってくるものだな、と思います。


●<第2回:成功の反復>


「サンゆ倶楽部」と言う異業種交流会がありまして、私が社会に出て初めて入った、仕事とは全然関係のない会です。その会の目的は「夢」と「ゆとり」と「ユーモア」だけを追求する会です。もう会は30年を越えているらしいのですが、その会に昭和52年から入れていただいています。



その会で、月1回「サンユ塾」というのがありました。いろんな教科書をくれまして、それを勉強していきます。今はちょっと形が変わりましたが私が入った当時はそんな事で進めてました。
その中でいただいた本で、何の本だったか題名は忘れてしまいましたが、「成功の反復」という項がありました。



人間というのは、何か自分で苦しいことにトライして、その苦しいこと、難しいことができたら、それ以後はそこまでは必ずできる、と自分で思えるようになるらしい。
そして、その次というようにまたやっていける。 人間というものは「成功の反復」の繰り返しであるという。 そしてその成功を少しづつ大きくしていく…そういうようなことが書いてありました。



よく分からなかったのですが、「ああ、これか」と思いました。子供の時に、例えば舞台のような所に立ったときガタガタ震えるのが、うまくいったら、その次は「そこらぐらいの事やったらできるんと違うかな」と思うようになる。



これはすべからく、仕事でも一緒かな、と思うのです。 自分にちょっとした難問題が降り掛かって来たときに、とりあえず頑張ってトライする。 トライしてそれができたら、次は、そのレベルまでは必ずできる、と思うんですね。  そうすると自信が持てる。何とか一生懸命やったら、できるのではないか?そうするとその次をやっていけるという自信が出来てくる。



そういうような事を、知らずにやっていて、後からある本を読んで、「あ、そうか。こういうのが『成功の反復』と言うんやな」とわかりました。 皆さんも、それから私ももちろんですが、何か嫌なこととか、厳しいこととか辛いことがたくさんあると思うのです。



それをがんばると、今の力が100だとして、120いったら、苦しいですけどそれができる。次はその120が100パーセントになるような気がします。そういう非常に苦しい、突き当たる壁みたいなものがよくあるような気がします。



ついでなのでここでお話しさせていただきます。
人生でも仕事でも、「どうしたら良いか分からない」ということ、例えばどっちを選んでも答がどうなるか分からないということで迷ったり、真剣に悩んで考える事が有ると思います。



先ほどは私共の仕事を輸入車の販売会社と言っていただきましたが、私はもともと修理工(メカニック)なんです。今は確かに輸入車販売がメインなんですが、メカニックとしての工場経営から中古車センターをするか、しないか、販売を自分がやろうかというので、すごく悩んだことがありました。



「サンゆ倶楽部」というところでは、「経龍会」という京都の天龍寺で坐禅をする会もあって、以前は年に10回ほど行かせていただいてました。 そんな悩み多い時、ちょうど天龍寺に坐禅で泊まり込みがありました。



朝は早くから起きてお掃除をします。天竜寺の庭というのが国宝らしいのですが、かじかむ手で庭のお掃除をしているときに、廊下に衝立のような台が置いてありました。 それに書いてあったのが「登竜門」というものでした。



何かの登竜門とかいうのが、よくありますよね?その程度しか分からなかったんですけど、今は文章も中身も覚えてないんですけど、結局どういうことが書いてあったかというと、要するに、人間はどうしても超えられないような壁につき当たる事がある。



その時超えようとして努力するのだけどなかなかうまくいかない。ところがその壁を何かの拍子にぽんと乗り越えたら、そうするとそこからまた一気に登り出す。そういう壁のような所のことを「登竜門」という……というようなことが書いてありました。



何かそれでほっとしたというか、自分が今まで悩んで苦しんでいたことが、「あ、そうか、これは『登竜門』やな。これを言うんやな」と思いまして、何か本当に思わずぽん、と膝を打ちたくなるような気になり、決断しました。



その時に結局、具体的に何を悩んでいてどのようにしたのか今ははっきりとは覚えてないのですが、多分その頃にそういうことがあったと思います。



また、私は行きていく中で、英語として間違っているかもしれませんが、パーソナルコミュニケーションという言葉が好きなんです。



知りあいで読書好きの方がたくさん読んだ本の中から「氏田君、これは君に合うよ。これを読んだらどう?」と言われた本を読む。そうすると私はたくさんを読むのではなく、その方がお読みになったものの中から私にすすめてくださってそれだけを読む。 もしくは、誰かがすごく勉強されて、例えば本を読んで研究されたことを咀嚼して私に教えてくださる。



私はそれを素直に受け止める。ですから自分自身は当然、学校の勉強も苦手でしたし今でもちっとも勉強はしませんけれども、そういう素晴らしい友人がいるおかげで、数少ないチャンスを生かしていけているような、そんな気がします。



今日は間違ったことを偉そうに言うかもしれませんけれど、とりあえず聞いていただいて、また、良ければいろいろとご意見も頂戴したいと思います。

●<第3回:阪南高校>


私は1969年、昭和44年に、大阪府立の阪南高校という学校を卒業しました。

非常に自由な学校でして、入学当時からみんなが先生にいろんなことを言ったり、いろんな意見を述べられる、レベルが高いというよりも自由な学校だったと思います。



私は入ったときは成績が良かったらしいんですが、どんどんどんどん学業が落ちていきまして、欠点すれすればかりでした。それで1年生の時から先生によく叱られてました。

何せ1学期の終わりぐらいでもう赤い数字(欠点)がいっぱい並ぶんです。別に中学で一生懸命勉強したわけではなかったんですがそれ以上に勉強しませんでした。



高校に入ってから、伝書鳩を50羽ほど飼っていたので、そちらの鳩レースのほうに一生懸命になっていました。この伝書鳩の話だけでも1時間はかかりますので、又次の機会にしたいと思います。



だから「最初は成績の良かった人間がなんで1学期でこんな悪くなるねん?」とかいろいろ言われました。それでもその時に素直に受け入れられなかったんですね。



私はヘソ曲がりだったのか、「高校で勉強するのなんか無駄な時間と違いますか?」と先生に言ってました。

先生も「なんでそんなん無駄やねん?」と言うので、「やっぱり若いうちから集中的にやらなあかんことがたくさん有るはずやから、時間がもったいない。 学校の勉強みたいなのはあんまり役に立ちませんよ」とか言いかえしてました。



何か今から思ったら顔が「真っ赤」になるのですが、真剣に先生にそういうことを言いましたね。 「どうしようもない奴っちゃなー」と思われてたようです。



書道の授業の時、私が字を書いていましたら、先生が「真面目に書け」と言い出すんです。「僕は真面目に書いているし、これは素晴らしい字ですわ。もう芸術ですよ」とか言い返すわけです。先生が「こんなん芸術やない」と言うから、「先生、それはどこに問題があるんですか?一体美しさとかいうのは人間の感覚の問題やから、錯覚やないですか」と言ってしまいました。「君、それが分かってるんのやったらちゃんとレポートにでもして出しなさいなさい!」とか言われました。



それで『錯覚論』というのを書きました。高校生の時にですよ。今は残ってないですけれど、何せ「美の錯覚」とか「愛の錯覚」、「人生は錯覚」とか、そういうことを自分なりに書いていって、先生に出しました。

幸田先生だったか、書道の先生だったと思うんですが、それですごく良い成績をくださいました。私だけはあまり一生懸命授業受けないで良いという。何か、おかしな話ですけど、、、。


そんな阪南高校ではこんな事もありました。 当時大学では「全学連」や「全共闘」など学生運動が盛んでした。 ちょうど東京大学で安田講堂が封鎖され、入試のなかった年です。



実は私たちの阪南高校では卒業式当日、一部学生により学校にバリケードが張られ封鎖されました。 全国初の高校の卒業式封鎖でした。 もちろん、私は外から体育会系の連中と飛び込んでいって封鎖を解除する側でした。 天下、国家人生を諭じる。 そんな高校時代でした。



そんな高校生活の時、父親が亡くなりました。昭和43年8月10日、高校3年の夏休みでした。私の父親が今の、有限会社氏田自動車工作所という会社を昭和20年に創業して、昭和25年8月に法人登記しました。ちょうど私の生まれた年です。 そして18歳の時に死んでしまいました。



正直言って、その時はあんまり悲しくなかった。何故か分かりませんが、そんなに悲しくもないし、どうということもなかった気がするんです。 ただ、お葬式の時になって、棺を出す時になんか本当に泣き出しただけ、というのを覚えているのですが、すごく複雑な心境でした。



ところが、仕事をするようになって、父親の値打ちがわかるんですね。仕事や人生で悩んだりしだすと、結構「オヤジ」が何かしら私を助けてくれるんです。寝ていても、夢で出て来てくれたりして、突然大声で泣き出すほどの事になってきたりしてました。

●<第4回:私の家庭>


私の家庭は非常に複雑でして、父親も母親も再婚です。そして父親のほうの子どもが2人、母親のほうの子どもが2人。結婚して私ができた5人兄弟、ということなんです。


もう両親もいないからこんなふうに言えるのですが、小さい頃は家の中ではタブーというか、みんな分かっているんだけどお互いに言わない、家族の複雑さで、私を含めて5人の兄弟に母親がすごく気を使っていました。


だから、子供心に何か、すごく気を使いながら、兄弟の話や、家が将来どういうふうに継がれていくのか、というような話は家族の中では絶対に出ませんでした。


そして友達同士でそういう話が出てもしゃべれないというか、自分でもものすごくその話題には触れたくない、というような、辛い場面がよくありました。


父が死んで、2番目の兄が会社の跡を継ぐことになるわけですが、私にとってはまったく関心のない話なんです。実際、小学校の時から心臓が悪くて……心臓が強いのと悪いのとは違いますので(笑)、心臓の弁が欠けているんですよ。

それで、心臓から血を送っても戻ってくるという、弁膜症みたいなものです。


だから激しい運動は一切できない。それは小学校4年生ぐらいの時に学校の健康診断で分かりました。 診断してた先生が突然「あ、これはえらいこっちゃ」と言いました。聞いてて、「これはえらいことなんや。俺はどうなんのかな?、死ぬん違うかな?」と思いまして、それでもう1度精密検査されました。


その後、階段を上がって教室に戻る時に、もう、「ほんまにもうアカンな…」と思ったのを今も覚えてます。何かありますよね?ドキッとするようなもの…それで精密検査だとかいろんなことをして、とりあえず運動は一切禁止。体育は見学だけ、そんな小学生でした。


中学生ぐらいになって体もちょっとはマシになって、生活も普通に出来るようになってきました。でもそういう時期がありましたから、両親も私には期待していなかったと思います。

多分死んだ父もまさか私がこの仕事をやっているとは夢にも思っていないのではないか、と思うんです。


体の事も有って私は学校を出たらどこかへ勤めようと思っていましたから、誰が継ぐとか、そういうことをあまり気にしてませんでした。

それで当然、兄が会社を継いで仕事をし始めます。たまに実家に来るんですけど、なかなか思わしくないという感じは高校生の私にも分かりました。


明治40 年生まれの父親は非常に仕事が好きな人で60歳まで、自分で創業してワンマンでずっとやってきてました。自動車の修理が本業なんですけど、運送屋さんを別に経営したり、加古川のほうにガソリンスタンドを作ったり、仕入れている部品屋さんが危なくなったらそこの会社に応援に行って、会社の代表権を持ったりと、たくさん仕事をしていました。


そのような会社の2代目の社長に、私の兄がなるわけですが、非常に気の毒だったと思います。それだけのものを一度に引き継いで、その前に建てたもので南住吉にあった工場の多額の返済分もありました。



ワンマンの社長である父のうしろでずっと仕事をしてましたから、とにかく大変だったと思います。 その兄がやる、ということになりまして、私はそのまま学校を出るということになりました。

●<第5回:苦学生??>


そして高校を出てどうするか、という時に、私は関西大学の社会学部の2部に入学しました。
いわゆる大学の夜間です。



いつも思ってるんですが、物事の見方というのはすごく面白いです。どっちから話をもっていくかということなんです。



例えば高校生の時に父親が死んだ。学校へ行きたかったけれどいろんな関係上、夜学にしか行けなかった。夜学に行きながら家業を継いで―― (実はその後うちの会社はすごいことになってしまうんですが、、、)―― そしてやがて、会社も駄目になってしまう。ところが、没落したその会社をその後、何とか建て直す。



とまあ、こんな感じになると、1つの「売り」になるとは思うんですけどね。実際は全然違いまして、昼間の大学に行くほどの学力はなかった。たまたま、「友達はみんな大学行くし、だから俺も行かなあかんねん。どっかちょっとした就職も難しいし、だから夜間でも受けよか?」ということでした。



夜間は皆さんもご存知のように試験は簡単でしょ?私は立命館大学の2部と関西大学の2部とに通って、近いからと言う理由で関大の2部に行くことになったんです。ところが、夜学に行くのに6時頃に学校に入ろうと思ったら、「きちっと」時間どうり仕事の終われる、そんな会社に勤めないと間に合いません。だから公務員の方が多いんでしょうね。



しかし、それはちょっと無理だし、4月に入学してから遅れて5月ぐらいに、自分の会社に入れてもらいました。兄が社長で、私が入社した、というわけです。それは要するに夜学に行く間のつなぎで入ったわけで、自動車なんてあまり好きじゃなかったんです。ただそういうことで入社しただけなんです。



入って一番に、会社の中がガタガタになっているのに驚きました。以前の会社は先代のワンマン社長の父親がいて、そこに私の兄がいて、他に職人さんが3人いた。そして事務には古くからのおじさんがいた。



それで一番上の社長が急に死んでしまったから、兄が上に上がろうと思っても実質的には上がれないんです。1代目から2代目につなぐ時に難しいというのはそれだと思うのですが、トップが居なくなると会社がもうみんなバラバラになるんですよ。



私が入って行ったら1番の人気者でね、兄にとっては弟ですから、いろいろ言ってくれるし、職人さんもみんな「下」が入ってきたと思って私にいろいろ技術を教えてくれる。

経理のおじさんはおじさんで、「耕ちゃん、事務を教えてやるからやったらどうや?」と言ってみんなが私を引っ張りだこにしてくれました。



それでこんな性格ですから「ま、ええかなあ」と思って、職人さんや皆さんを相手にしました。
1人、喫茶店に連れて行くのを喜ぶ人がいて、連れて行ったら、と言っても私が連れて行かれるんで、お金も向こうが払うんです。とりあえずしゃべりたい、整備の技術をいろいろ教えてくれるわけです。



「この構造はこうなんだ。ミッションはこうや」と言って、喫茶店のナプキンを出してそこへ書いて教える。教え魔なんですよ。「ふーん、なるほど、自動車て面白いですね」と言うと、「ほな今日仕事終わったらまたお茶飲みに行こう」と、引っ張られる。



兄は兄で人を使うのが嫌だから私に何かと指示するんですね。1番強烈だったのが、「手形の書き換えに行って来い」というものです。全然何も分からない私に言うんですよ。会社の印鑑と兄の実印を私に持たせて、書き換えに行くんです。



今でも覚えてます、大国町にありました尼崎ナニワ信用金庫…今は名前が変わりましたね?…そこに行くんです。手形や書き換えの意味さえわかってませんでした。

金額は覚えてないので何百万としましょうか、その何百万かのお金を1カ月後に払います、という手形がありまして、その期日が来ているわけです。何も分からないでそこに行ったら、向こうがすごく怒っているわけです。



それで「すんません」と言ったら「なんや?元金を少しも返済しとらへん」と言われます。その上、本当は書き換えに行かなきゃならない日にも行ってなくて、遅れて私が突然行かされてるわけです。「もっときちっと期日に来なあかんやん。元金の返済はどないなってんねん?」とか言われても、18歳で何も分かりませんから、ただ謝るだけです。



それでゴム印を捺して、兄のサインを私がして、兄の実印と会社の実印を捺して、利息だけを払ってくる、ってやってました。

●<第6回:社会人1年生>


それに経理のおじさんはおじさんで、簿記を教えてくれるんです。

振替伝票の書き方とか現金出納帳とか、いろいろ教えてくれるんですけど、私はそういうのはあまり得意ではないんです。


後で考えて分かったことは、要するに会社は父親が死んだ後で借金もあるし、資金繰りがうまくいかないから、金が詰まってくるんですよ。それで私にそれを担当させて、金が詰まってきたのをどっかから引っ張りに行かせる。要するに母親とか、どこか知り合いに金を借りに行かせるということだったようです。



社長の兄はもう事務まかせで、事務の人が私にそれを言う。だんだんやっているうちに、「大変や。どっかから金を借りなあかん。お母ちゃん、会社は金が足らんらしいわ」というと「そんなん私、ないで?」と言うことになります。


「俺どないしたらええんかな?銀行でお金借りなあかんのかな?」と、もう全然分からない状態でした。



私は普通科の高校卒ですから経理は苦手でした。第一、一番悪いのはそろばんができないですよ。小学校の時にそろばんを習ったんですが、なにしろ手が大きい、指が太いで1つ上げるのに2つ上がっちゃう。10上げたつもりが110上がってたりね。そろばんをおく度に数字が違うんです。


そろばんができないと経理ができませんから、困ってました。今みたいに小さな電卓もない時代です。それで日本橋にあった中古品専門の五階百貨店へ中古のレジスターを買いに行きました。大きいのしかないのですが、当時きちっと数字が出るというとレジスターなんです。コンセント差し込んで叩いてね、がちゃがちゃと計算が出来る。



昭和44~45年ぐらいですから、普通事務をやる人はみんなそろばんをパチパチと置いて数字を出すのをそろばんができないからレジスターで計算してました。それでいつも車にレジスターを積んで移動するんです。請求書や見積書を作るにもレジスター打って、出てきた数字を書いていました。近代的なのか非近代的なのか分かりませんが、今は電卓ができたおかげですごく助かっています。



その時の思い出で1番面白いのが、「小切手事件」です。日本橋の角にある三和銀行の恵比須支店とも取引してまして、そこからもお金を借りていたんです。それでそこに行って、小切手を書かなきゃいけない事になりました。向こうが「ここに金額を記入してください」と言いました。全然知識の無い私が小切手を書くわけです。 普通は簿記を勉強してるか、事務を習ってないとわかりません。

小切手に金額を書く欄があってね、そこへ数字を書けって言われるんです。


例えば135,670円だったら、そこへまず「¥」って書いて算用数字で「135,670ー」って書いたら良いと思うんです。 ところが、銀行の人が「小切手にこんな書き方はないでしょ。 漢字で書きなさい」と言うんです。 



漢字で書くって言われたんで、2枚目の小切手にまず、「金」って書く。 「¥」じゃないんです。そして、135,670円だから、一三(ジュウサン)万(まん)、五千、、、「金一三万五千六百七十円也」です、最後に也を付けるは何故か知ってました。 そしたら向こうの銀行員が今度はめちゃくちゃ怒りましてね、「これはだめでしょう!」ですわ。「何でですねん!」すると、「もうええわ!」ですよ。



3枚目の小切手帳を持って行って、後ろで「ガチャ」ってチェックライターで打って来て判を押させるんです。 「それやったら、最初から打て!」と思いましたね。 この小切手帳ね、紙代を取るんですよ。 それも、きっちり3枚分ね。
銀行というとお金を貸しちゃうと、、…銀行の人はいらっしゃいませんよね?(笑)すごくえらそうなんですよ。本当に腹が立つぐらい。

それで家に帰って母に「今日銀行行ってこんなん言われた」と言ったんです。うちの母は尋常小学校しか出ていませんけど、「何にも知らんとよくそんなんやったなー」と言って、広告の裏の白いところに、「壱」とこう書いてくれまして、「この下に書け」と言うわけです。それで漢数字を書いて、練習して、、、、、。母親に習いました。あの時に、「あ、そうか、小切手とか手形に手で書く時はこういうふうな字を使うんやな」というのが初めて分かりました。





今でも母親に習った、その時のことが絶対忘れられへんのは、大正2年生まれの母親は尋常小学校しか出てないんです。 その学校へ行って無い人に習った事なんです。 私は今でも小切手帳をはずして持っていって、どこでも数字を書いて、小切手を作れます。 それを書くたんびに、「ああ、おふくろに習ったなあ」って思い出すんです。


そんな事も18歳だったからできたと思うんですけどね、だけどそういう事って世の中にいっぱいあるじゃないですか?

そして、メカニックのほうの先輩は「整備士を早よ取れ」というので、勤務期間をごまかしてもらって受けに行って、すぐに3級整備士の免許を取りました。



その頃は色んなことがいっぱいありました。そんないろんなことがいっぺんに経験できましたからやっぱり早く社会に出て良かった、と思いました。例えば自動車の修理という特殊な技術というか、自分が将来食べていけるだけの事を身につける。

銀行に行ってそういう数字の事を教えてもらったり、経理というか簿記というか、振替伝票とか複式とか、バランスシートを作るところまでは今でもできます。おかげさまですよね、簿記なんて正式に習ったことはないんですから。




でも、ただ何でもできるだけでは駄目で、今度はそれを読める、予測できないと経営者にはなれない、ということなんですね。



会社は予想通り2年ぐらいで資金ショートしてきました。社長の兄は答を出しませんので、「どないすんねん?」というので、高利貸しにお金を借りに行ったことがあります。



亡くなった父親の知り合いで高利貸しを副業でしている人に資金繰りのためにお金を借りに行ったことがあるんです。その時には母親も連れて来いと言われまして、兄と母親を連れて行きました。兄が社長ですから兄が書いて、うちの母親が保証して、それでお金を借りました。



高利貸しって、あれはすごいですよね?金利がメチャクチャ高いし、おまけに先に金利を取られるんです。お金を借りる時は先に金利を引かれた分しか貸してもらえないです。銀行というのは普通は預けた時は元金に金利が後から付いて返ってくるんです。でも聞いたら銀行も貸すときはそういう仕組みだということで、高利貸しだけではないということが分かってきました。

●<第7回:縮小する勇気>

そういう色々な事がありました。 兄も音を上げるし、その当時、今のウジタオートサロン住吉店の1つ南の筋を東に入った角にうちの工場が有りました。



100坪ほどありまして、それをとりあえず40坪売って金利の負担を軽くしようということになりました。 その40坪はすぐに売れたのですがそれでもなかなか追いつきません。 そこであとの60坪も売りに出す事になりました。 その時には「もうあかん。このまま行ったらせっかく親父が、『お前らにお金はよう残さんけど、他人様に後ろ指だけは指されんようにしといたる』と言ってくれてたのがそれすら危なくなる」というので、とりあえず、会社を閉鎖しました。



商売の買掛金も何もかも棚上げしてもらって、土地が売れたら全部返します、という約束でとにかく、そこを閉めました。 しかし、今度の60坪ははなかなか売れませんでした。 よく分かったのが、やっぱり店を閉めたらすごいですね。 取引先の人達の対応の変化というか取り立てというかね。 今まで「はあ、はあ」何て言っていた人が、「お前ええかげんにせんかい。そんなだからあかんねん」とか言われましたね。



もっとも待って貰ってるこちらが悪いんです。「なんで俺がそんなこと言われなあかんねん。俺は社長と違う」と言ってけんかをしたことがありました。 20才ぐらいの時ですかね? ちょうどその頃に私は十二指腸潰瘍を患ったんですよ。 今はこんな気楽に言ってますが、当時は1つ1つがものすごく真剣な話で、苦しかったです。 いろいろ悩んで、本当にお腹が痛くて調子悪くて駄目でした。



それで阪南町にある小川医院というところに行きまして、当時は毎日1本ずつ注射をするんですね。 それで20本打ったら、バリウムを飲んでレントゲンを撮るんです。 それでまだ治ってないというと、また毎日20本まで注射をして、バリウムを飲んでレントゲンを撮るんです。 結局60本うちました。そしてなんとか潰瘍が治まりました。 その時は毎日、お粥さんに白身の魚、そして外出時は熱いお茶の入った魔法瓶を持ち歩いてました。



皆、母親の世話になってました。また仕事しながら時間を見つけて、ずっと病院へ車で通いました。悪いときには悪いことが重なるもので、その小川医院に行く途中に、信号を曲がった所で、信号待ちの車の間から小学生が飛び出してきて跳ね飛ばしてしまいました。小学生の女の子が1ヶ月も入院するほどの事故でした。 その時に初めて分かったことなんですが、うちの会社は保険の代理店をしていなかったんです。



手続きがめんどうだったのか、保険専門の保険屋さんへの紹介でしてました。だからと言うんじゃないんですが、いざ事故を起こしても、その代理店の保険屋さんも保険会社も何もしてくれませんでした。自分で保険会社に行ったり、事故の解決とかやったりして大変でした。 20才ぐらいの時でしたが、その当時は保険もまだまだ不親切な頃で何でも当事者や代理店がしないといけなかったんです.




事故を起こして、女の子の入院してる病院や家に謝りに行った事。 病院と支払いの交渉したり、示談するまで1年以上かかりましたね。 頼れる父親もいなくなってましたし、「そら、体も悪ぅなるなあ」と自分で思いました。 自分のもらった給料明細も全部持って、「もうこんだけしかお金がない。うちは親父も死んで会社もあかんから、もうこれで勘弁してください」と言って、最後に示談書を書いてもらったことがあるのです。




そんな経験がかえって私には良かったです。自分がそんな経験をしたからそういうことにすごく強くなりました。だから今はどんな事故であろうが、平気で行けるようになりました。大概、事故を起こしたらみんなビビってしまって喉が渇いて口がカラカラになって、という場面なんですけど、「大丈夫ですよ。命までは取りませんから、安心して私に任してください」と、言えるようになりました。




その後は自社で代理店を始めました。まあその時のおかげで、事故があったら、その時の当事者の困った気持ちというのが分かりますから、必ず自分が出て行ってきちっと解決する姿勢でいます。今は住友海上と東京海上で保険の代理店をやっていますけど、おかげさまで去年も東京海上で全国表彰を受けました。

●<第8回:ストレス>

話は戻りますが、十二指腸潰瘍で注射を60本うって治った時に、その小川先生に教えられた事が有ります。「氏田君、こんな二十才ぐらいで十二指腸潰瘍になるような奴はよっぽどやで。



これは病気と違うて、君のストレスや。男は一生働かないといけないんだから、酒を飲みなさい」と言われました。 すごいお医者さんだったんですよ。 私は父も母も、兄弟達も誰1人酒を飲まないのです。 ところがその先生が「酒を飲め」と教えてくれたんです。



また、別のきっかけもあってその後、お酒を飲み始めました。 先ほども言いましたように昨日もちょっと飲み過ぎましたが……。 だけど私はお酒のおかげでストレスを発散するということが身に付きました。



最近は人によくお酒を勧めるんですが、アルコールを飲むようになって分かったことがあります。私はすごく真面目に見えるらしいんですが、本当に片苦しいくらい、めちゃくちゃ真面目なんです。 ところが、面白いですね。酔ったら人間が変わるとか、何て言うかな? 飲んだらもうめちゃくちゃ面白いです。



自分で言ってしまうんですが、本当に酔ったらどこででも寝てしまいます。お酒を飲んでると、近所の帝塚山の駅を降りて帰って来るのが、もうしんどいし、道路でべたーっと寝てしまう事がありました。 「近所でようやるな」、と言われるんですけど、あの道路の角でぐーっと寝てね、寒くても暑くてもめちゃめちゃ気持ち良いんですよ。



ここまで自分も落ちたら、もうこれ以上、下はない、という感じになりますね。よくあるでしょ? 天王寺とか難波でよく地面に寝ていらっしゃるじゃないですか。 本当に、「やれ」と言われたらすぐにでもできます。でもそこまで自分を落とす気だったら、何も怖いことはないですからね。


だから自分でもそういうことが経験できるのはありがたいな、と、そう思います。変な話になってしまいましたけど、まあ、お酒を飲めたおかげで、自分にとってはすごく良かったな、と思います。

●<第9回:一生の仕事を決める>

その後、結局工場を全部売却することになるのですが、兄も自動車の仕事はもう止めまして、勤めに行きました。会社も閉めました。 売却さえすれば、それでもう会社は解散、というところだったんです。 私は当時何も仕事をしていませんで、夜学校に行くだけだったんです。



昼の大学に行っている連中が暇だと、早い目から誘いに来るから遊びに行って、それで夜から学校に行って、終わったらまた遊びに行って、そんなことばかりやっていました。



ある日の朝、6時前後だったと思うのですが家に電話がかかってきました。帝塚山の3丁目にお住まいの早嶋さんという方からでした。 旭屋書店さんの関係の方です。 車がエンコした、と言うんです。 それで私が行きましたら、ご主人もご一緒でした。



いつもは奥さんとしかお会いしなかったんですけどその朝はご夫婦でおられて、教会へ行って、帰ろうと思ったらエンジンがかからなくなったとのことでした。 それで「耕ちゃん、来て」と言われて、行ったわけです。 私は結構器用なところがありまして、ポイントを調整して、すぐエンジンを掛かるようにしました。 



その時に早嶋社長が私に「なんで会社閉めたんや?」とおっしゃいました。「もう自動車はあきまへんねん。 儲からへんし、仕事は大変やし、汚いし。 あんまり社会的地位も良くないし。 夜学やけど大学を出たら勤めに行こうと思てます。ホワイトカラーを目指してます」とかなんとか言ったんです。



若い時からものすごく生意気だったんですよね。すると社長が、「君、僕の仕事良いと思うか?」とおっしゃったんですよ。 旭屋書店と、宝石の旭屋さんと、それから放送局とか、もやっておられたんですよ。だから「社長、それはもう絶対ええん違いますの?」と言いました。



すると、「いや、僕は君のほうがええと思うよ」とおっしゃったんですよ。「どういうことですか?」と聞いたら、「僕は朝から車が動かんようになって困ってる。そんな時に貴方が来たらその車動かせたやないか? そういう人に出来んこと出来て人の役に立つ、そんな仕事は素晴らしいん違う?」というふうに言われました。



その言葉で自分の子供の頃を思い出しました。私の小さい頃の時代というのは車がよくエンコしましたから、夜間の出張修理というのがよくありました。夜、父親が家に帰って来てご飯を食べていても、電話がかかってきて「出張や、行くか」と言われたら、私は「はい」と工具箱を持って付いていくわけです。 それで人がエンコして困っている所に父親が行って、車をチョッチョッとしたらパッツとかかる。



昔はほんとによくエンコしたんですよ。エンコしてもそれはすぐ直せる。ちょっとしたコツなんですけどね。それに子どもの頃はついて行ってました。 その時父がいつも車が直った後に、「なあ耕吉、この仕事はええやろ? 相手がよう直さんのに、わしが行ったら一発で直るんや。 どうや。相手は喜んでたやろ?」「うん。喜んでた」「おまけに金までくれるねんでー」と言ってね。父がいつも私に言っていたんですよ。



忘れていたんですけどね、それを早嶋さんに、言われて、「あ、そうやったなー」と思ったんですね。 「多分仕事は何をしても一緒やよ。 あんたはええと思って、僕みたいな仕事に憧れるのかも分からんけど、僕は君のような仕事がいいと思うよ」と……決して仕事に差はない、と、そういうことをおっしゃられました。



その時は本当に大切な事を教えられたような気になりました。その早嶋さんのご主人はすでに亡くなられて、今は緑地公園に引っ越されて、まだずっとお取引させていただいてます。 行く度に仏様にお詣りさせていただいているのですが、今も「素晴らしい人にその時に出会った」、と思います。



それが自分の仕事のきっかけです。ちょうどその後、今の女房と付き合い出したんですが、結婚するときに 「勤め人の人は嫌や。ずっと一緒に仕事したい」と、甘えられて(笑)、、、一緒に仕事できるのが良いということだったんです。 自分なりにそういった『きっかけ』があって、「私の仕事はもうこれしかない」と思いました。



自分で決めたら何かふっきれた、というか……難しいし、大変だし、社会的地位がどうとか、人がどうとかそういうのは気にならなくって、もう私にはこの「車の世界」しかないと思いました。 この仕事を変化して変えていっても、この仕事しかない、と自分で思ったのがこの時だったと思います。



今は「決めた者勝ち」、そんな風に思ってます。 それからの仕事内容は今までものすごく変わりました。と言うより、自分で変えてきました。 狭い、汚い工場で修理していましたけど、「これからは販売違うか?」と思って見様見真似で車の販売もやりだしました。「これからは輸入車やないか?」と思ったから、今は輸入車の販売のほうに特に力を入れています。



何度も言います。いつまでも固執したらいけないかも知れませんが、もう「自分の生きる道はこれしかない」、と思った時に、何か自分が分かったような気がしたんです。 他にしたいことがあったら、別にしたら良いわけで、自分の本業、自分の生きる道を先に決める。 その時に教えていただいて、「この道」を決めさせてもらった、早嶋勝さんという方には未だに感謝の気持ちに堪えません。私も出来たら、他の人にそんな思いを残せる人生を送りたいです。

●<第10回:再出発>

さて時間はかかりましたが、その後南住吉の工場も売却できました。 そのお金で取引先の買掛金はじめ、銀行の借入金も精算でき、きれいになりました。 すごく色々とありましたが、今となっては言い訳になります。


住吉区で整備工場と言うと多分1、2で古いと思うんです。 その他の古い所は大概潰れてしまいましたから、間違いは無いと思います。 ですから古くからやっている自動車屋だから、みんな知っているわけですね。


あそこの親父は1人でがんばってやってきたのに駄目な息子達が会社売ってしもうて、潰してしまいよったな」と、思われていたんでしょう。 私が逆の立場でも思います。 先ほどの早嶋さんとの話があった時からいろんなことを考えました。 うまく経営できなくて店を閉めて精算した事は間違ってはいなかった。


しかし今度は自分が一から何とかして、父親がやっていた会社ぐらいまではしたい。 できたら、この地域で一番の店になるまでがんばらなきゃいけないな、とその時に思いました。 「早くお金を返してください、支払いして下さい」と言われる気持ち、人から白い目で見られるという、感じ。 それを二十才ぐらいの時にひしひしと感じましたから、何とかしなきゃいけないな、と、常に思い続けてきました。


これは私にとっては「発奮のもと」になりました。 人さま、銀行さまにも全部、きれいに精算出来ましたが、お金は残っていません。 南住吉の工場も売却しましたから以前からの帝塚山の本社の所へ帰ってきて仕事をやりかけました。 しかし再出発とはいえ、いきなり「シャカリキ」にやった訳ではありません。


小さく生んで、大きく育てる、の文字どおり、小さくはじめました。 車好きの友人を二人、アルバイトで来てもらって始めましたが、これも経費倒れでした。 やがて結婚と同時に家内が経理で仕事は私一人でやってました。 しかし一旦会社を閉鎖状態にした訳ですから、なかなか思うようにはいきませんでした。


まずはじめは古くからの方々の内、私をかわいがって頂いてた所にお願いに行きました。 しかし、えらいものですね、信用を得るのには時間がかかりますが、無くすのはすぐなんですね。 取引の再開にはなかなか時間がかかりました。 それまでの間、一番お世話になったのは、友人、知人でした。


普通は「知り合いだから安くする」「知り合いからは金はとらん」とか言いますよね。私は逆でした。「よその車屋に儲けさすんやったら、俺に。」 ひどい時は「俺には値切るな、必ず将来、何かで返すから」何て事を平気で言ってました。


でも勿論、高く売りつけた事はありませんよ。 実は今、住吉中学校、阪南高校の同窓会の期生会のお世話をしています。と言うよりさせられてます。 理由は「おまえが同級生から一番儲けさせてもろたやないか!」です。 本当にその通りだと思っています。 一体何人の同級生に世話になった事か、と思います。


この年になって考えてみれば、親しいお客様方や友人、知人、又その親御様には大変なご支援を受けていたことがよく分かります。 「掛けた情は水に流せ、受けた恩は石に刻め」という言葉がありますが、出来れば、回りまわってでも、そのお返しを必ずしなければいけないと思っています。


しかしそれから何年も、何というか本当に色々ありました。口では言いにくいぐらい悔しい思いをたくさんして、もう「コテンパン」に言われて、やられて、本当に「くそ」と思うような場面が何回もありました。


お金がないのは辛い。 もうちょっと資産があったら、うちの家にもうちょっと財産があったら…「チキショー、もうちょっと、もうちょっと…」なんて事もずっと思ってました。 


自分に財産がないとか、自分にそういうバックボーンがないというのが悔しいな、と、常に思い続けてやっていました。 仕事上は自動車整備の需要は必ず減ってくる、と読んでました。 そこで、工場を改造して、用品やパーツ販売もしました。 


これはうまくいかず、次は車の販売に手を出し始めてました。今の南港通りの帝塚山店がある所から50mほど西に行ったところに、昭和55年に初めての中古車の展示場を開設することになりました。

●<第11回:中古車販売進出>

その時も、完成しかけてたモータープールを展示場に借りたくて、家主さんにご挨拶に行きました。 「モータープールができたら、中古車の展示場をしたいので貸していただけませんか?」と、飛び込みで行きました。


すると、「お前で借りに来たのは3人目や。自動車屋ばっかりや。 自動車屋はあかん。大体ええ加減な奴が多い」と言われました。 まあ、実際、車屋というのはいろんな人間が多いですから仕方ないんです。 でも、「あかんとか、貸せない」と言われるだけだったら我慢できるんです。


「自動車屋はあかん」とか、「車屋なんかには貸せん」と言われた時に、やはりどうにも我慢できなかったんです。 「社長、おっしゃるのは分かりますけどね、決して自動車屋だからあかんとか、そういう言い方はおかしいと思うんですよ。 僕はね、一生懸命この仕事してて、今はまだ力もないし、何もないけれども、そういう言い方されるのはどうも我慢できません。


ただ普通に『貸されへん』、て言われるんやったら分かるけど、自動車屋やからあかんとか、車屋がどうやとか言われる覚えはない」「結構です。また自分の力で何とかしてみます」と言って帰りました。 「人から後ろ指さされることはしてない」という親父の言葉しか頭になかったんですね。


それが逆に気に入られたのか、2日ほどして電話で「もう1回おいで、」ということで、呼ばれました。 「ちょっと他所で聞かしてもろうたけどお前はなかなか一生懸命仕事してるらしいな。 もし、わしが死んだらここを売って相続税で払わないかんから、お前、すぐ明渡すか? 出ろ言うたら絶対文句言えへんか?」という話でした。 


「貸してもらえるんですか?」と聞いたら「お前が約束守れるかどうかや」とおっしゃいました。 私は「もしお貸しいただけるのやったら、社長に逆らうことしませんし、出ないといけないのやったらすぐにでも出ます。 これからは修理だけでは食って行かれへんから、1回、中古車の展示場をやらしてほしいんです。何とかお願いします」という事で、お借りしました。


後から聞いたら、その社長さん自身も大変苦しい時代に良い人に巡り会って、「がんばりや」といって応援してもらったことがあったそうです。 今度はそれをお前にしてやろう、ということで貸していただけることになった様です。 それが会社転換の1つのきっかけになりました。


変な話ですが、私は夢にまで見た(?)、年中無休で働けるということになった訳です。 修理だけだと、日曜も祭日も休まなきゃいけないんですよ。 部品が入ってきませんから仕事はできません。 でも中古車の展示場だったら年中無休で開けておけるんです。 とりあえずいつでも好きな時に働けるわけですから、もうそれが嬉しくてたまりませんでした。


私の父親は明治40年生まれですから、昔はずっと無休で働いてました。当時、世の中はみんなどういう休みの取り方をしていたのか分かりません。 ただ、私が中学生ぐらいの時、だから昭和40年ぐらいだと思うのですが、うちの会社が初めて、第1、第3日曜が休みになったのを覚えてます。それまでは毎月1、15日が休みだったようです。それから間もなく毎週日曜が休みになりました. そういう時代でしたから、私は子どもの時、ずっと自分の親が働いているのを見てました。


だから、自分も働くのは苦にならないのです。中古車屋だったら休まないで働けるから、それが面白い。おまけにアルバイトの大学生の子に展示車を掃除させて、私は修理と販売を掛け持ちで経費極小でやってました。


それから後しばらくは、はっきり言ってかなり儲かりました。修理だけでも何とか食べていけてましたし、昭和55年ころは、中古車販売全盛で、よく売れました。その頃はやる商売がすごく面白くて、楽しかったです。あまり経費もかからないし、そこそこ利益も上がって来るということで、自分としては、その数年、非常に良い時代が続いたように思います。


今になって考えてみると、いわゆる業界の過渡期だったんでしょうね。 自動車の整備業界は戦後間もなくの混乱期から経済の高度成長期にかけて、利益構造上は良かったようです。 同じように中古車業界も、昭和40年頃でしょうか?一説ではプライス(価格)を前面ガラスに貼り付け、露天に置いて売り出した頃から昭和60年頃にかけてです。


ルールや仕組みは完全ではないんですが、その方が儲かるんでしょうね。これが落着きだすと収益構造はかんばしくない、いわゆる成熟期、「儲からないビジネスモデル」になっていくんでしょう。新しい物、製品や新しいサービス、新しい方法が出たその時は混乱期、そして成長期になっていって、そのままだと衰弱してしまう。だから、その混乱期から成長期が勝負時ですね。また、企業はだからこそ、常に 『新しい』 に挑戦していかねばならないんですね。

●<第12回:街づくり>

その間、仕事だけでなく、色々なことを経験させてもらいました。 例えば、帝塚山地域のほうで「帝塚山街づくり交流会」いうのを作りました。 この頃、のちに、私共の帝塚山店、住吉店の建物を設計された小山雄二さんと知り合いました。


設計が本業なのですが「街づくり」というのをいろいろ知っておられ、ご指導を受けて、はじめました。彼とは一緒に「帝塚山流通新聞」というのも作りましてね。 実は私は中学、高校と新聞部におりましたのでそういうのが好きだったんです。 学生時代は一時期、できればそういう仕事に進みたかったものですから、自分なりに自信を持っていたのですが、彼の「新聞」の作り方を見ていますと全然違うんですね。


年は一つしか違わないんですが、さすが京大、本当に頭の良い人でした。新聞作らせても記事を書かせても、もう的を射てパッパッとやるんですね。 頭の構造が違うんでしょうけど、そういうのもすごく吸収させてもらいました。 あと、いわゆる『活動』として自動車整備業界の青年部「大阪自動車青年会議所」の会長を引き受けてました。 また阿部野神社の表参道の角にちょうど当時の帝塚山店が在りましたので、神社の青年会を作って、近所の子どもに御神輿を担がせようということで、「氏子青年会」というのが出来ました。


私が初代の会長になりまして、その昭和60年に、御神輿を作るのにお金を集めなきゃいけないというので、とりあえず知り合いに寄付金を集めに回りました。  チラシを作って名刺広告で集めました。 1番面白かったのは、お宮さんの寄附をもらいに行って、すごい人達に会ったことです。


まず、某スポーツクラブの社長さんです。 その人は私の高校の先輩でして「新しくオープンする事だし、お願いしますわ」と言ったら、「まけとけ」と言うんです。 値切るわけです。 「お宮さんの寄附、値切るんか」と思ってね、私の気持ちはもう許せんわけです。 「なんちゅう奴ゃ、こいつ」と、まけとけなんてよく言うな、と思いました。


そうすると横にいた副会長のこれも同じ高校の後輩のY君が「なんぼにしまひょ?」と言うわけです。「こいつ、何を言い出しよんのかな?」と思ってるとね、向こうとなんやかんや言ってね、1枠10万円のを7万円かなんかにしたんです。 1枠が3万円から、結構大きいのは10万円とかあるわけです。 他の人には10万円貰ってるわけですよ。 


他の皆さんに貰ってるのに、値切る奴がいる、おまけにまける奴が副会長でいる。「なんちゅう話や!」とむちゃくちゃ腹が立ってね、それこそ「商売の誠」がない奴らですよ。 商売どころか、他の人に申しわけがないでしょ? 理屈から考えて。


それで神社に帰って、私は言ったんですよ。 「寄付金を値切られたからってまけまんねん。どないします?こんなん」と言いましたら、 「まあ氏田はん、よろしいやんか、商売はまあ、そらいろいろ有りまっせ」と言うんです。 なんで自分が神社の人に商売を教えられなきゃいけないのか、すごく世界が違うんだな、と思ったものです。


結局その後何年かして、ある事情でその青年会は解散しました。 その話は長くなるのでしませんが、とにかく解散してしまったんです。 私は常々言っている、世の中色々な人が居られる事、勉強になりました。 その頃、会社のスペースを使って、うちの会社の感謝祭ということで、「おおきに祭り」というのを1987年、昭和62年に始めました。


今もずっと続けてますけど、現在は「帝塚山祭り」という名前に変えて、地域の祭りとして行われてます。当初の2年間は、うちが単独で感謝祭をやりまして、近所の子供達に楽しんでもらえるようなお祭りをしました。 3回目から帝塚山病院さんともご一緒できて、大きくなってきました。


今はたくさんの方々にご協力頂いて、まさに「地域の祭」となっています。 一時期は「お前らの営利のためか?」というような意見も出てました。 色々とありますが、 時間が経てばいろんなことが変わってくると思うんですね。


最初は営利かもしれない、謳い文句で「街づくり」とか「子どもの夢」とか言っていても、本当にずっと続けていると、その謳い文句も本物になってくることもあると思うんです。 商売してるから、とか、仕事してるからと言っても、それだけでいいのかな?私は仕事してますから、自分の企業が栄えないと駄目なわけですが、それだけでなく、少しでも公共的なこともやっていけるようになりたい、と思っています。


企業としても「人様の為」、と言うのも何とかやっていくように努力しないといけないのじゃないかな、と思っています。 そんなイヴェントを通じて、人の出会いとか場面というものがたくさんあって、実業の仕事とは又違う面白さがありますね。

●<第13回:「走れぼくらのチンチン電車」>

その後、街づくり交流会では上町線に走ってるチンチン電車に子どもの絵を描いて走らせる、「走れ僕らのチンチン電車」という企画がありました。 字ばかり書いてある南海電車では味気ない。 だから子供達に町を走る電車の絵を描かせようと思って、企画しました。

「電車に子どもの絵、デザインコンクール」というので募集しました。 子どもの書いた絵を描いてチンチン電車を走らせようという企画です。 その時は何とかしてマスコミに取り上げてもらおうと思ったんですよ。

それでうまいこと仕掛けて見ようと筋書きを作って、微かに知っていた朝日新聞の記者さんに電話をしました。 帝塚山を通過してる日本有数のチンチン電車、ところが、運営は赤字、、、そこで、会社は走る広告塔として、チンチン電車のボディーを自由に使った媒体を販売している。

ところが、それは企業広告だらけで風情もモラルも見られない。 そこで、街を憂うる地域住民、「帝塚山街づくり交流会」のメンバーは子供を絡ませてくる。 『街づくり』に引っ掛けて、子どもに夢を与える企画でいきました。 町を活性化させたいというような言い方をして、PRで新聞に載せてもらおうと思って電話をしたんですよ。

そうしたら聞くだけ聞いて、その知り合いの記者さんは私に、「お前、何が狙いや?」と言いましてね。 「お前ら町の商売人のために、そんな事で新聞は使われへんで」と言って電話を切られました。 まあ言ってみれば確かに偽善です。 カモフラージュしているわけです。

「街づくり」だとか「子どもの夢」だとかいうので街の売り出しをカモフラージュしてた部分がありました。 それをその西垣戸勝さんと言う記者さんには指摘されたんです。 まあ確かにその通りで「参った」と思いました。

でもこういう性格ですから諦めずにまた別のツテを頼って、もう「何が何でも」ということで、朝日新聞の別の記者さんを何とか落とし込んで取り上げてもらいました。 やがて朝日新聞の夕刊の社会面のトップで載りました。

それで「ざまあみろ」とか思って西垣戸さんにまた電話しまして、「載りましたでしょ?」って言ったら「もうーそんなん書くやつがおるから朝日新聞はあかんのや」とか言ってましたね。 マスコミはおもしろいもんで、一紙が取り上げると、右にならえですね。

毎日、読売、産経の全紙、そしてテレビは最初がNHKでして、すぐに他社も取り上げてくれました。 筋書きやお膳立てはみんな出来てましたんで、一気に「帝塚山街づくり交流会」は有名になりました。 すると自然とメンバーも増えてきました。 ただ、あとで増えてきたメンバーは又すぐに減っていきまして、今は結局最初のメンバーが中心で活動を続けてますね。

●<第14回:鍵山 秀三郎氏>

私がちょうど業界の青年部のような、大阪自動車青年会議所の役員をさせてもらってた時に、別の組合で教育ビデオを見せてもらったんです。 それが、「てんびんの詩(うた)」のビデオでした。 そのビデオを見てぼろぼろ泣いちゃったんです。 「すごいビデオだなあ」、と思いました。

その後、その青年部の会長をする、ということになりましたので、「このビデオ『てんびんの詩』をこれから社会に出て行く人間に見せなきゃあいけない」ということで取り上げました。 こんなすばらしいビデオを作る人を招いて講演会をしてもらおう、ということになりました。

昭和60年の8月、東洋ホテルに「てんびんの詩」の監督、竹本幸之祐さんに来ていただきました。 その時、私はみんなに言いました。 「これこそすばらしい映画です。みんな見てください。」ってね。

100人ぐらいの会だったのですが、メンバーのみんなはその時まだ見ていなかったんですよ。 「その映画を作られた竹本監督をお招きしています」と言って、竹本さんにお話ししていただきました。 後でみんなにもう『けちょんぱちょん』に言われました。

その監督の言われる内容が映画とは全然違うんですよ。 私の思ってたその映画のすばらしさとか、その映画の中に流れているものを話してもらおうと思って監督を呼んだんですが、全然違うんですよ。 

何か子どもにさつま芋がどうだとかポテトチップスがどうだとか、母親の教育がどうだとかいう話でもう全然違ってそれこそ、ブーイング物でした。 本当の話、「なんやこれ?講演料がもったいないな」と思ったんです。

それでも「てんびんの詩」はすばらしいし、うちの新入社員には今でも見せています。 もうそれ以上の事は考えず、いろんな人がいていろんなものが作られて、結果として良い映画ができたらいいのかな、と思ってたんですよ。

それが面白いのですよ。 ここに日経ベンチャーのコピーがあるのですが、これは1988年の5月ですから、それから約3年近く後のものです。 本を読んでると、こういうのがぱっと目に入りました。

「少年は涙の向こうに商いの真髄を見た」と書いてあるんです。 株式会社ローヤル(現イエローハット)が制作した話題の映画「てんびんの詩」と書いて、顔写真もありました。 「なんやこれ?竹本幸之祐ちゃうやんか?」と思ってね、 「どうなってんのかな?」とか思って慌てて見たんです。

とりあえずその時コピーを取りましてね、皆さんの敬愛されます鍵山秀三郎さんが載っているわけですが、私は理解できなかったんです。 この記事にもありますが、誤解を招いてはと、こういう公(おおやけ)に取材されたのはこの時が初めてらしいですね。

実際は鍵山さんが「てんびんの詩」のスポンサーになられて、この映画がすばらしいものになって、世に出された…。 その文章の最後に「でもローヤル(現イエローハット)があの映画を制作した、ということを知っている人はまだまだ少ないようです。

『鍵山さん、良い映画があるんだよ。』と言って『てんびんの歌』勧める人がいるくらいですから」というふうに書いてあるわけなんです。 それで「そうか、あの映画はこの人が元やったんやな」とわかりました。

そしてこの文章を読んで、「こんな人に会いたいな」と思いました。私はわざわざ映画の監督まで呼んで期待と違ってたことで諦めていたのが、この本を見て、「この鍵山秀三郎さんに会いたいな」と思ったんですよ。 話は続くんですが、その頃、融資を受けてた、大阪銀行の勝山直人支店長という人の縁で、先ほど話の出た西垣戸勝さんと親しくなっていました。

その西垣戸さんからこの鍵山さんの本を見た数カ月後、「大阪で自主上映会をやるからちょっと人を集めて協力してくれ」、と言われて、学校で自主上映会をするようになったんです。 「何の映画をしますの?」と聞いたら「『ナザレの愛』や」というわけです。 

韓国、慶州のナザレ園の理事長のキム・ヨンソンさん、の物語をやる、という話なんです。 これは西垣戸さんが松下政経塾の上甲晃さんから頼まれて、「大阪で自主上映会をするから、ぜひ人集めと企画とを頼む」、と言われた、ものでした。

引き受けた時は全然分からなかったのですがよく聞いてみたら、実はその「ナザレの愛」もローヤル(現イエローハット)さんがスポンサーの話で、上甲さんが頼まれた相手というのがこの鍵山さんだったんです。その上映会の時に、初めて鍵山さん、上甲さんにお会いできました。

めちゃくちゃ嬉しかったですね。坂村眞民さんの話の「念ずれば花開く」じゃないですが、自分で思っていると、思っている人に会える。 そういう何か糸がたぐり寄せられるというか、そういうような気になりました。

そして上映会が終わって、円卓の真ん中に鍵山さんを挟んで、反省会がありました。 鍵山さんを挟んで上甲さんと西垣戸さんだったんですが、急に2人がけんかし出しました。

真ん中に鍵山さんが座っておられるのに「ガーッ、ガーッ」と言い合いになりました。今でも目に焼き付いていますが、誰が言っても止まらないんです。要するに映画の上映の仕方についての意見が違ったわけです。

喧々囂々と、その最後の打ち上げの時にやりだしたわけです。その真ん中に鍵山さんが、ただ、ただ黙って座っておられるだけなんです。 「こんなけんかはあきまへん。やめときなはれ」と言ったのだったかな?でも、逆にけしかける人もいて、「いや、あかん。言い出したものは最後までけんかせなあかん」とか言い出すんです。

「もっとやらな。とことんやらなあきまへん」ともね。 実はそこで一緒に行ってた樋口順三さんが怒ってしまって「ほな私らもう帰ります」と言って帰ってしまったので私も仕方なく帰ったんです。

だから私にとって記念すべきこの場が、後がどうなったかはわからないんですが、それが初めて鍵山秀三郎さんにお会いできた時の事でした。 それ以来、鍵山秀三郎さんにはいろんな場面でお話や講演を聞かせてもらったり、ご指導を受けているわけです。

本当に人に会うというのは何かそういう自分の気持ちを念じるというか、そうすることで呼び込めるというか、そういうのがあるのではないか、と思うのです。

昔、関東のほうを中心にスーパーをやっておられた「アイ・ワールド」という会社の五十嵐社長さんという方にお話を聞いた事が有ります。その方は自分の手帳に会いたい人の名前を書くらしいのです。「○○に会いたい」と書いておくんだそうです。

そうすると、何年かして、自分の力が強かったら必ず会える、と言われてたことがありました。私はあの時は本当に「あ、これやな」と思いました。

●<第15回:夢の具現化>

そしてその「ナザレの愛」を甲州建設の志村元司さんが非常に感激されて、彼の会社の20周年の記念事業として住吉区で数回、自主上映しました。 そのときに、韓国、慶州のナザレ園の理事長「金 龍成(キム・ヨンソン)さんを応援したいな」と思って、志村さんは集ったお金を鍵山社長にお預けしました。

「何かにお役立てください」という話だったのですが、そうしましたら「先般のお礼に」ということで大阪に来られることになって、今度はその金 龍成(キム・ヨンソン)さんにお会いできるんです。

お金の金額がどうこうということではなく、何かお互いが意気に感じる所が有ったのか、わざわざお越しいただきました。 そこで私も金 龍成(キム・ヨンソン)さんとお会いしました。 お会いして握手したときのその柔らかい手が今でも忘れられない、本当に名実ともにすばらしい人でした。 

うちの昔のセンターから阿部野神社さんに向かう途中に、大屋政子さんの大きなお屋敷があったんです。 立派な塀を見ながら、「あー、そうか、ここが大屋政子さんの家か。 俺も近所に店出したしなー、たまには会えるぐらいにならないかんな」と思っていました。 

そうすると、建築工事の絡みでお会いするようになっていきました。 それで一緒にゴルフ回らせてもらったり、本気で励ましを受けたり、人生相談にのって貰ってました。 ですから私は念ずれば、誰にでも会えるんじゃないかな、と思う時があります。

周りの人から「なんでお前はそんないろんな人間と会うようになってんねん。 おかしな奴っちゃなー」と言われるんです。 さっき言いましたように「念ずれば花開く」というか、やっぱりすばらしい人にお会いして、接触することによって自分が変わりたいとか、すばらしいなと思う人に1度は会ってみたい、確かめてみたい、という気持ちが強ければ強いほど、それは可能なのではないか?そんなふうに思います。

ここからは借金話ですから辛い話になるかもしれませんけど、そういった色々なご縁がありまして、私は帝塚山店の用地を綜合開発の樋口順三さんから分けていただきました。 樋口さんとしては、あそこは手放したくなかった土地だと思うんです。すぐには快諾は頂けませんでした。 樋口さんとご相談してる時、いろんな所に一緒に連れて行ってもらったりしてました。 いろんなことがあって、「うちの家行きまひょか?」と、初めて自宅に連れて行っていただいた時です。

奥さんを交えてちょっとした話しをしている時に、「あそこは氏田さんに売りましょ」というふうに「ぽっ」と、決めていただきました。 すごく嬉しかったです。 帝塚山のメイン通りで、昔から有名なところです。 

私は父の時代に持っていた工場を一つ失ってしまってます。 だから、何とかして手に入れたい、と思っていた夢を、樋口さんに叶えていただきました。 

私が初めて自分で買った土地が念願の場所でそれもメイン通り沿いだということでもうすごく嬉しくて、「更地のそこに布団持って行って寝ようかな?」と家で言ってたぐらいめちゃくちゃ嬉しかったです。 やっとの思いでその土地を手に入れることができました。

実はその時、三菱銀行でお金を借りようと思ってたんです。 ところが「金額大きいから」ということでなかなかOKが出ないんです。 自分なりに貯めていたお金よりもちろん借金が多いですから、銀行が出したがらないのも分かるんですが、私はどうしても3月3日にその土地が欲しくてあせってました。

どうしても3月3日に契約して自分のものにしたかったんです。 話が出来たのは2月の半ばぐらいだったと思うのですが、もうあと10日か2週間ぐらいしかなかったんです。 銀行にせっついてもOKが出ないし、引き延ばされる状態でした。

それで綜合開発の樋口さんに、初めて大阪銀行へ連れて行ってもらいました。 そして王子支店の応接室に入れてもらって、当時の支店長の勝山直人さんに紹介されました。

勝山さんは開口一番に、「お会いしたかった」と言われたんです。 例のチンチン電車に子どもの絵を描いて、子供達に夢を、街づくりを、の「走れ僕らのチンチン電車」の企画の軸になって動いていた人に会いたかったそうでした。

全然融資とは関係のない話なんです。 そして「融資をしてやっていただけませんか?」と樋口さんがおっしゃって下さいました。 当然1度も取引もないし、それが初対面でした。 まだバブル景気に入る前ですから、なかなか銀行も厳しい時だと思うのですが、「まあゆっくりいきましょう」と言われました。

「僕はどうしても3月の3日にこの土地を買いたいんです」という話をしたんです。 勝山さんが「なぜその3月3日に拘られるんですか?」と聞かれました。

実は私の結婚記念日だったんです。 私はうちの家内にはいろいろ辛い思いをさせてました。 いわゆる「帝塚山」とは名ばかりで、こんなに貧乏な家に無理矢理嫁に来てもらいました。 そのくせ、えらそうな事ばかり言うもんで、結婚前は向こうの親からも「結納倍返しで破談や」とまで言われてました。

「あきまへん。やめとき。あんな奴に嫁に行ったらあかん」と言われる中で私は女房を引き攫ってきましたから、どうしてもこの記念日に初めての土地を買いたいと思っていたんです。 それをもうひたすら勝山さんに言いまして……。

まあこれ以上言い出したら私が泣いてしまうので今日はもう止めておきます。 ただ、ものすごくいろんな思いがありましたからどうしてもその日にしたかった。

「ほれ見てみい。これで俺は言うてた通り買えたやろ」と言いたかったんです。 向こうの実家の親から「あいつはほら吹きで口ばっかや」と思われてたようでした。 「えらそうなこと言うて、あんなとこ嫁にやって失敗やった」と思われてたようで、絶対に買いたかったんです。

その話をしたときに勝山支店長さんが、一言で「融資しましょ」と、決めてくださいました。未だに返し終わっていないほどの私から見ればすごい金額です。 それをいきなり「ぽーん」と言っていただきまして、何かこう、「ほんまにええんですか?」と一瞬言いたくなりました。 私の家族観や人生観で決めて頂けたようでした。

「私が稟議書を持って回り、必ずOK出しますから、それで進めてください」ということで、本当に希望の場所に希望のものを希望の日に手に入れさせていただけた訳です。 これは今でも樋口さん、勝山さんにお礼を言わなければいけない話で、本当に嬉しかったです。

私がその当時使っていた手帳に書いているんです。ちょうど買ったのが1987年で、「1987年から88年にかけて、それは自分の人生観・生活観を大きく変える年になってきた。 今までは節約と節制を一念に、お金は貯めるもの、借りてまでのものではないと思って、借家・借地での生活と仕事であった。 ところが、今までの自分が貯めていたものを遙かに超える借金をして、土地を念願の場所に、念願の日に手に入れることができた。 しかしこの事によって、今度はこの活用について、今までの概念では対応しきれなくなってきたことに気が付いた。一体どのように自分自身を自力で切り換え、そして引き出せるか、一生にきっと数度しかない大切な時期であると痛感する」と書いています。

私は父が死んで、父の残した財産を売って借金を返してしまった。そのときに何とかしてそのぐらいのレベルの場所にそのレベルのものを持ちたい、工場を持ちたいという夢を描き続けてたんです。そして皆さんのおかげで自分の夢が叶って、みんなが羨むような場所にすばらしいものを手に入れた。

ところが、ここで気が付いたのが、ここまでで私の夢は終わっていたんです。ここから先が何もなかったんです。一体これからどうしていったらいいのかな、となった訳です。

●<第16回:母親>

我が家では子供の頃から父も母もお金には特に細かくしつけてくれてました。欲しい物が有ったらそれを目標に「まず、お金を貯める」、貯まって使う時には「もう一度、その貯めた時の事を思い出してどうしても欲しかったら、それから使いなさい。」でした。それで、子供の時にはお小遣いを貯めても結局使うのを止めた事が何度もありました。それを前提に聞いて欲しいんですが、、、


帝塚山店の融資が決まってから、勝山支店長さんに「こんだけ貯まってますねん」と、月5000円ずつとか、月1万円ずつの積立預金の通帳を見せました。 18歳から38歳までの20年間、ひたすら、夢に向って細かく貯めてました。それを見て、「ようやってましたなー、こんな細かいお金ばっかり」と、ほめてくれましたが、どうだったんでしょうね?


もう本当にものすごく細かいお金を寄せ集めたのが頭金でした。ただひたすら、工場売却の時に悔しい思いをしたから、何とかして、何とかして、と思っていただけの思いがそういうふうになったわけです。しかし、いざ手に入れてしまったら、そこで夢は終わってしまっていた。そこからどうしていいか分からなかった。


それが私自身の、一大転機だったと思うんです。そこに今のビルが建ち上がるまで2年かかりました。実際の工事期間は10カ月でしたけど、いろいろと決断したり、自分の思いを募らせるのに大変な時期がありました。そうこうしているうちに、多和田さんからお借りしていた場所からの立ち退き話があって、約束していたそこを立ち退くと借金の返済ができない、という心配も出てきました。


それで住吉店の土地を買うことになりました。いろんな問題はありましたけど、自分としては何とかしてそれを乗り切らなければいけないので、そのようになってしまったんです。借金を始めて動き出した以上はね。そうするとまた次の土地を買って、次の拠点を作る、ということがここから始まっていくわけなんです。


20年かかって貯めたお金を頭金にして、土地を手に入れさせてもらいました。手に入れてから後2年間で、20年かかって貯めたお金の10倍借金をしました。これは誰が考えても返そうと思ったら200年かかるわけなんですね。今まで通りだったら200年かかるわけです。これでは不可能ですよね。


当然自分の考え方も心構えもすべて変えていかなければいけない、ということで、もうすごく苦しかったです。なにしろその時の苦しさというのは、最近は笑いのネタにしていますけどね、寝ていて夜中にぱっと目が覚めたりする。朝、目覚ましが鳴り出す、目覚ましの音が「キンリキンリ(金利)キンリ」と鳴り出す。「金利鳴っとるぞ」と慌てて目覚まし時計をぐっと抑えてぱっと裏を見る。「大阪銀行王子支店」と書いてあるという…これぐらい金利の苦しい時代にたくさん手を出しました。


本当にいろんな流れの中で、苦しいことがありました。その中で母親にずっと苦しい、辛い思いをさせたと思っています。1990年に母親が亡くなりました。なんというか、ずっと「母親に部屋を作ってやりたい」と思い続けていました。


ビルの竣工と同時に母親の部屋を作って仏間を付けてあげて、お風呂もお便所も隣にあるし、小さな台所も付けて…これは私の1つの夢でした。父にできなかったことを母にしたかった。実際にそこに住んでくれたのは1カ月ぐらいです。それもだいぶ体の調子が悪かったのですが……………。以前に子宮ガンにかかりまして、電気治療で飛ばしたものですから今度はそれが肺に転移して、最後は肺ガンで亡くなりました。


隣の帝塚山病院さんにお世話になりまして、成人病センターに入れていただいて治療したんですが、思いのほか早く調子が悪くなりまして、最後は1週間、帝塚山病院に入れていただきました。自分の部屋と同じ並びの病院ですから、ちょうど部屋の外に見える景色が、まったく一緒なんです。ぼけてきていますから、「家に帰って来れた」というふうに勘違いしていまして、「良い家を建ててくれた」と、言い出すんです……………。


非常に苦しかった、いろんなことがあったと思うんです。私が子どもの時、中学生ぐらいの時なんですが、友達がみんな喫茶店に行くわけです。でも私は喫茶店に行ったことがなかった。中学生にもなって喫茶店に行った事がない……………。


母に言いました。「なんで俺をもっと喫茶店とかレストランに行けるように育ててくれへんかったんや?」と言いました。


外出した時はいつも売店で立ち飲みのコーヒー牛乳を飲ませてくれるんです。私はずっとそれがおいしいと思い続けてきた。ところが世の中にはそういうように喫茶店に行ってコーヒーを飲んだり、良いレストランでご飯を食べたり、そういうことをしなきゃいけないわけです。


なんでそういうふうに英才教育(?)をしてくれなかったんだ?とよく母にぼやいてました。高校生の時でもぼやいてました。母はいつもただ黙って聞いていましたが、結婚して自分で仕事をするようになったときに、「私は精一杯やった。あんたが思う以上に家は貧しかったから、それはもう私の精一杯やった」そういうふうに言われました。


「自分の事は自分でしなさい、自分の道は自分で切り開け、自分が一流になりたかったら、自分でなりなさい!」そういうふうに仕事を始めた時に言われました。「悪かった、自分が間違っていた」、と思いました。


何とかして自分で建物を建てて、母親の部屋を作って……………死ぬ、本当に数日前に、「ようやったな。お父ちゃん喜んでるで。ヤマコやない。がんばりや」と言ってくれました。


今でもそのことだけは絶対に忘れられない。いくらどんな環境で育っても、自分が本当にやる気があったら絶対にやり通せると、私は思います。


本当に良い親に恵まれたと思っています。貧しかったら貧しいだけ、それをハンディキャップにして、それが自分のためになる、というふうに思いました。

●<第17回:人間行脚の会>

さてその後、平成2年秋に豊中の店をオープンさせていただきました。どの店でもそうでしょうが、最初の頃の経営はちっとも楽じゃないし、すごく苦しかったです。毎月毎月赤字で、もうどうしたら良いか分からないようになってきてた時期がありました。


私自身、いくらやっても自分のやっていこうとする商売がうまくいかなくてどうしたらいいか分からない頃でした。父も母も亡くなってしまって、もうどうなっていくか分からないという気持ちの時でした。今から考えると、悲壮的になりすぎていたんでしょうね。


ちょうどその頃、さっきから話に出てきてる方々と「人間行脚の会」と言うのを結成しました。顧問に鍵山秀三郎さん、モスバーガー創業者の櫻田慧さん、最初の発起人は西垣戸勝さんで他には松下政経塾の上甲晃さん、綜合開発の樋口順三さん、甲州建設の志村元司さん、大阪銀行の勝山直人さん、みの源の瀧内氏重さん、はやの速水逸也さん、など、そうそうたるメンバーで、私が最年少で何でも走り回る役でした。


ただ、その結成式の時に、大変まずいことが有りました。今日はあえてお話ししたいと思います。実は私が鍵山さんに食ってかかってしまいました。何を食ってかかったのかな、というふうに思うのですが、何かちょっとした言葉の中で、ローヤル(現イエローハット)さんの商売の仕方についてなんです。「社長の考えてはる商売の仕方とか、が僕には理解できません。おかしいじゃないですか?今までの話とは違う!」ということで、訳も分からず鍵山さんに食ってかかってしまいました。もうさんざんな事を鍵山さんに言いましたし、他におられた方々にも言いました。


それは何かというと、自分が商売をしていくのに思うようにいかない事が原因だったんです。自分ではいくら頑張ってるつもりでもうまくいかない。それがすごく悔しくて、もう訳がわからず、食ってかかったんです。何か非常にまずい雰囲気の中でその会は終わりました。


その後自分としても気持ちの収まりが付きませんでした。その場面のことはうまく説明できませんが、その後私が出したお詫びの手紙の写しを取ってありますので読みます。 


「昨夜は遅くまですみませんでした。酒を煽って眠りに就いたものの、明け方に目が覚めました。布団の中で実につまらんことをしてしまった、自責の念でいっぱいです。いくら言葉や表現を変えてごまかしてみたところで、昨夜のこと、実際には自分の現状の不安や情けなさを表現したに過ぎないことがはっきり分かりました。自分の意志で長年の希望通りの仕事の展開を与えていただきながら、その不安に自分を偽っていたのが本音のところです。


慌てて岸にあった船に乗って河を渡りかけていたのかもしれません。それも自分が長年憧れていた向こう岸に向かって河に出たものの、思いのほか流れが急すぎて、船のせいや河の流れのせいにしているのが今の私です。しかし、たとえ万が一にも船が転覆したところで、もう元の岸には戻れません。その場で溺れ死ぬか、何とか泳いででも夢に見た向こう岸にたどり着くか、、、。人のせい、世の中のせいにしている自分の情けなさに気が付きました。人間行脚の会のおかげで目の鱗が落ちたようです。もう二度と後悔じみたことを言ったり言葉をすり替えたりせず、がんばってみせます。


たった一度の人生だからこそ、がんばってがんばって、がんばり抜いて見せます。貴重なお時間、本当にありがとうございました。行脚の会の一時に心より感謝し、あわせてお詫び申し上げます。今後ともよろしくお願い申し上げます。」


こういう手紙を出させていただいて、心からお詫び申し上げました。この時、鍵山さんはお忙しいにもかかわらず、「良かったら、年が変わったら、1度東京へお越しください」とおっしゃっていただきました。平成3年の2月6日、ローヤル(現イエローハット)の本社へ寄せていただきました。


本当に噂通りのすばらしい会社で、皆様の応対もすばらしかったです。それ以上にすばらしかったのは応接室で待っているときにこの色紙がかけてあったことです。


『 その時の出会いが人生を根底から変えることがある 良き出会いを 』という、相田みつおさんの詩でした。


これを見たときに本当にこの方とお会いできて良かったな、ここへ来て良かったな、と思いました。当時はバブルの頃でしたから、どこの応接室に行ってもキンキラキンの飾り物が置いてあるのが当たり前の折に、古いけれども本当にきれいに掃除の行き届いた応接セットと、心を感じさせる「蜂の巣」の飾り物が置いてあったのが印象的でした。


お昼の食事を一緒にいただいた後、鍵山さんが私にこの紙を出してきてくださいました。ご存知の方もあるかもしれませんが、

「こうだったから、こうなった。こうだったのに、こうなれた。こうだったからこそ、こうなれた」これを教えていただきました。「氏田さん、最後が良いんですよ。『こうだったからこそこうなれた』というふうに自分の人生をやられたらいかがですか?」とおっしゃっていただきました。


自分に何らかのハンディキャップがあったり、自分が苦しければ苦しいほど、「だからこそ、こうなれた」、というふうに言える人生にしたい、と私も心しました。


今でも私は自分の部屋にこれをかけてあります。「きっと私が行くために鍵山さんが書いてくださったんや」とずっと思い続けていたんですけど、さっき、ご出席の鍵山さんの会社の方に伺ったらちょっと字が違うかもしれない、ということでした。


でも私は、きっと私が行くために鍵山さんが書いてくださったものだ、と思って、いつまでも自分の宝物にしたいと思っております。

●<第18回:一大決心>

豊中店を始めた時は、「もうあかん、もうあかん」と、何度も苦しい思いをしました。 なかなか軌道に乗らなくて、1990年の10月にオープンしたのですがバブル崩壊後の景気の急激な落ち込みで毎月毎月の赤字で、実は1年ちょっとの91年の12月に、もう諦めました。


家主の樋口さんに、「もう、今年いっぱいで止めたい」と、年末、挨拶に行きました。 すると、「もうちょっと頑張ったらどうや?家賃しばらくいらんからやってみたら!」と言っていただきました。 私は「いや、もういいです。諦めます」と言い切りました。


ところがまたその時にね、「人」というのは必ず現れるんですよ。 いろんな時にいろんな人、時の氏神(うじがみ)じゃないですけどタイムリーな人がいましてね。 私が豊中の店を出すときに大反対をしていた小山雄二さんという帝塚山店と住吉店の設計者なんです。


「あかん。そんなところへ出したらあかん!」と彼は豊中出店を反対していたわけなんです。「帝塚山でやれ。お前は帝塚山や」と言っていたのですが、「いや、俺は北大阪にも店を出す」と言って出したわけなのです。


しかし駄目になった。 樋口さんと契約解除のそんな話をしている時に、なぜかその「人」が現れるんですよ。あの時は参りました。 年末のご挨拶に来られたんですが、私は樋口さんとそんな話をしていて、もう「しゅん」としてる時でした。


たまたま、鉢合わせになって、同席したわけです。 小山さんがなんやかんやと言ってて、「どうや?その後豊中は」というふうに言われました。 「ちょっと思わしくないから、実はもう撤収しようかと思うねん」と私が言いました。 すると彼は「そうか。そやろ。しっぽ巻いて帝塚山に帰って来るか」と、暖かい言葉(?)をくれましてね、これが悔しかったですね。


その頃は樋口さんと小山さんにはうちの役員をしていただいてましたが、反対され続けた人に「そうか、しっぽ巻いて帰って来るか」と言われた時、もうそれは本当に返事が言葉になりませんでした。


「くそー」と思いました。 12月の30日だったかと思うんですが、それからもうめちゃくちゃ悩みまして、それで樋口さんのところにお電話しました。   31日の除夜の鐘が鳴るちょっと前です。 実は年内で閉店を決めて、年明け1番に全部撤退して止めようと思っていたんですけど、結局返事は「もう1カ月だけお願いします」でした。


「もう1カ月だけやらせてください。小山さんの言われた言葉が効きました」ということを言いまして、あても無く、ただもう1カ月やることに決めたわけです。 何の策も無く年が明けました。


本来は毎年仕事始めに会社では会議をします。 それでその全体会議の時に、1年の経営方針を私が話すわけです。 とりあえず豊中のことはもうそれが最後で、その時に発表すればいいだろう、と思っていました。


年初はその会議を一番先にしなきゃいけないのに、たまたまその時、1992年の1月7日なんですが、さっきの「人間行脚の会」の主催で急遽、モスバーガー創業者の櫻田会長が講演をされる事になりました。私が司会をすると言うことになりまして、社内の会議を1日延ばして1月8日に設定し直しました。


正月休みに、「もう店は閉めよう」とはっきり自分の心は決まっていたんです。 ただ小山さんに言われて「くっそー、!」と思っただけでした。 1カ月と言ったものの、毎月すごい赤字を出しているのにそんな事が1カ月で良くなるはずがないですよね。


だから、その場はカッコつけて樋口さんにお願いしただけだったのです。 それで会議では、「もう1カ月で豊中は閉めるから、みんなもそのつもりでお願いします。」というような話をしようと思っていたわけです。


その講演はちょうど櫻田会長がこの場所でお話をされました。 創業20年で上場された企業の会長のお話です。  いろんな苦労話…全然売れなくてモスバーガーの店に泊まり込んで、売れ残ったハンバーガーのパンを食べながら、当初の創立メンバーとすごした話。 もうだめだと思った事とか、銀行でさんざん「ばか」にされた話とか、いろんなことをお伺いしました。 お互いに社員みんなが同じ使命感、同じ価値観を持って進んでいったら、会社はうまくいくよ、とか、いろんなことを聞いたのです。


その時、聞いた中でふっと感じたことの1つは、「人生はタライの中の水の如し」、タライの水を取り込んだら外へ逃げるし、前へ押しやったら返って来ますよ、ということでした。 人生はそんなものだそうです。


それと、私にとってその中で自分の頭に突き刺さった話がありました。 要するに経営者というのは「絶対に成功させるという一大決心をすること、絶対に成功させるという絶対的な決意を持つことだ、」という話でした。


これはいつもだったら「すー」と耳を素通りして聞き逃した言葉だと思うんです。 それがその時、自分の頭にぐさっと突き刺さりました。 もう何が何でも成功させるという気持ちになったらできないことはない。 「問題は自分の決心だ。」と、言う事です。


死んだ父が「1回しか死ねへん」といつも言っていました。 私は怖がりですから、「1回しか死ねへん、」と何回も言われてました。 だから、「死ぬ気になったら何でもできるのではないか?」という気持ちを持ってました。 そこへ正にその時期にその言葉が出てきたんです。


「絶対に成功させるという一大決心を持つ」、ということを聞いたときに、自分自身ものすごく身震いしました。最初からこの問題には逃げ腰でそんな心構えができてなかった、と気が付きました。


翌1月8日、うちの会社の全体会議の中では社員さん皆が大体想像したこととまったく違う話になりました。  「私は何がなんでも豊中の店は成功させるまでやり続ける。退くことはあり得ない。 やってやってやり抜く。 絶対に成功させる。そのつもりでやっていってくれ!」というふうに、激を飛ばしました。


その後はいろんなことがありました。 店を盛り上げるために本当に箸の転ぶような細かい話から何から何まで自分が、本当に「これでもか、これでもか」というぐらいやりました。 「お前、体大丈夫か?もっとゆっくりやれよ」「体大丈夫か?もっと他にやり方あるやろ?」とかいろんなことを言われました。 しかし私は、「自分がやりかけた仕事を成功させる!」という事で取り組んでいきました。


要は自分自身の気の持ち方でした。この「一大決心」の思いは今も変わっていません。

●<最終回:人生万事塞翁が馬>

(最終回です。ながらくお付き合いいただいてありがとうございました。)

さて本日のサブテーマに書かせていただいた、「塞翁が馬」という話は、ご存知の方も多いかと思います。 私は勉強してませんから、どなたかに「それは塞翁が馬やな」と言われて、「そうですね、ははは」とごまかした事があります。


「塞翁が馬」って何かな、と思って、どうやって調べたら良いのか、と当時高校3年の子どもに「塞翁が馬、て何や?」と聞きました。 「お父さん、勉強してへんかってんな。」と言って、古典の本をコピーしてくれまして、今でもそれを持っています。 意訳しながら読ませていただきます。


ーーーそもそも災難と幸運は次から次と入れ替わり生じるものだ。その変化は凡人には見えにくいものである。


昔、砦の近いところで占いのうまい老人が居た。 ある時、その人が持っていた馬が理由もないのにいなくなって、隣りの国へ逃げて行ってしまった。 近所の人がこの事件を慰めて話をしに来た。 ところがその老人は「これ何ぞ福とならざらんや」、つまり このことがどうして幸運とならないことがありましょうか、と答えた。 


数カ月たった時にその逃げた馬が、隣りの国から足の速い駿馬を引き連れて帰ってきた。 近所の人がまた来て「よかったですね、駿馬が増えて、素晴らしいですね。」と言った。 するとこの占いの老人は 「これ何ぞ禍となること能はざらんや」これがどうして災難の原因とならないことがありましょうかと言った。


その老人の家には名馬がたくさん揃ってきた。 老人の子どもは、好んで乗馬をする。  ところがその名馬にのっている時に、老人の子どもは馬から落ちてふとももの骨を折ってしまう。 そうすると、また近所の人がこの事件を「えらいことが起きましたな」と慰めに来た。  そこで老人いわく、「これ何ぞ福とならざらんや」と言う。 


何年かたった時、隣りの国から戦争で攻めてこられた。砦のそばの人たちはみんな戦争にかりだされて戦った。 若くして元気な人間は全員弓を引いて戦ったが、10人中9人までが死んでしまった。 ところがその老人の子どもだけは、片足が不自由なために戦争に行かずにすんで、2人とも無事に生き残ったと言う物語。  


このように幸運が災難となる。 災難が幸運となる。  その具合の変化は理解することもできないし、変化の深さを予測することもできない。 幸運な時にいい気になってはいけない。 災難だから、不幸だからと言って、いたずらに嘆く必要は一切ない。 


何かひねくれたように聞こえるかもしれませんが、ひねくれているわけじゃないですね。 幸と不幸は本当は表裏一体のものかもしれませんね。 不幸でも幸にできるし、幸でも不幸にできる。 何でも自分の良いように考えることもできる。 


私は小さい時に心臓が悪いと言われたおかげで運動も充分にはできないし体もどちらかというと弱かった。 だけど弱いから、自分が自分を労るために、結局今は本当に休みなしで働けるようなコンディションの取り方を身に付けることができました。


実は子供の時心臓病で、一切の運動を禁止されてたので、今でも金づちで泳げませんし、早く走ることもできない。 皆さんと同じ様に夜遅くまでお付き合いもできませんし、睡眠時間を減らしてまで朝早く起きることもできません。 だけども自分が世の中で仕事をしながらお役に立つことができるようなコンディションの整え方を覚えました。 


他の人より貧しかった。 自分の友人より経済的に恵まれなくて、「もうちょっと私にお金があったら」「もうちょっと家に資産があったら」とずーっと思い続けて、(今でも思っていますけど?)、そのおかげで一生懸命働くことを身に付けることができました。


父が早くに死んでしまって、いろんなことがありました。会社の建物やなんかも売却して、駄目になって、落ち込んでしまったけれども、その悔しかった思いこそが、自分を駆り立ててくれました。


人生には悔しい思いとか辛い思いというのは、どんどんあるわけですが、本当はこういう思いが1番、自分を強くする。 自分を1番逞しくするのではないか、そういうふうに思います。


私に嫌なことを言って来る人こそ、本当は私を1番育ててくれるのではないか、そういうふうに思えるようになってきました。 果たして可か不可かという答が出るのは人間が最後に棺桶に脚を突っ込んでフタをするときかもしれません。

人生まだまだ仕舞いにするには早い。もちろん今現在は楽じゃないし、とても苦しいですけど、今は成功とも失敗とも、何とでも言えるような時期にあると、思っています。仕舞いはまだまだ先、答はまだまだ出ない、だからまだまだ、さらにまだまだトライしてトライして、チャレンジしてチャレンジして、やり続けたい。


私の1番好きな言葉は「熱意」という言葉でして、体が熱くなるぐらいの熱意を持っていたら何でもできる。 誠実な「熱意」さえ持っていたらどんなことでもできる……これを信念にして、相変わらずトライしてチャレンジし続けたいと思っております。


言葉足らずでまことに申しわけございませんでした。長らくのご静聴ありがとうございました。これで終わらせていただきます。


《拍手》
進行役:どうもありがとうございました。 氏田社長のほうにもう1度盛大な拍手を。

《拍手》
進行役:あっという間の2時間という感じで、もう引き込まれるような、すべて実体験のお話をしていただきまして、とにかく僕が今お伺いして思ったのは、いろんな意味での縁結びというか縁づくりの喜びの種蒔きをずっとされて来られて、それが今のあの笑顔に、あのお声になっているんじゃないかな、と、又それが皆さんに感動を呼んだのではないか、と、私はそういうふうに思いました。


「感即動」という言葉があるんですが、思った時に即行動するということが、目の前に悪いことがあるかもしれないけれども、自分の取り方によっては必ず良い方に繋がっていく、というふうなことをいろいろ聞かせていただきました。本当にすばらしい講演を本当にありがとうございました。

心のこもったディリーメッセージ

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