弊社会長の講演 <その3>


於:2006.06.21 サンゆ倶楽部ロビー

「 育縁、活縁 ~ご縁に生かされて 」
講師  氏田 耕吉

●<第1回:異業種交流会「サンゆ倶楽部」>


今日は「育縁、活縁」というテーマで「ご縁」についてお話させて頂きます。 昔から私は「顔が広い」とかよく言われます。 勿論、顔の面積?の事ですが(笑?)、、、


今年のサンゆ倶楽部のテーマでも有ります、「育縁、活縁」の人様とのご縁こそが、その人付き合いや人脈に繋がってると思います。


まず最初は「サンゆ倶楽部と私」ということで始めます。私がサンゆ倶楽部に入れていただいたのが、昭和52年です。  27歳でしたから、足掛け30年ほど前ですかね。同業の吉田常男さんに連れられて、大阪、北区の中崎町の例会場に寄せていただきました。


いきなり連れていかれた、そのマンションの一室の入り口に「生きがい研究所」と書いてありました。
「なんや、これは、変な宗教団体かな?」と思って入っていったことを思い出します。


入るやいなや「メメントモーリ」ということで握手を求められた訳です。 このサンゆ倶楽部では、今日も何人かの方と握手したのですが、それが挨拶ですよね。 しかし相変わらず、高田宏成先生のが一番強烈ですね・・・ その時も一番思いがこもっているという思いで始まりました。 私にとりましては、このサンゆ倶楽部で学んだことが活かされて今日の自分があると思います。 これこそ一番の「ご縁」かなと自分では思っております。


ちょっと話は前後しますが、私の家はもともと自動車の修理工場です。 つい最近『ALWAYS~3丁目の夕日~』という映画があったんですが、見られた方おられると思います。 かなりの人気で、日本アカデミー賞を取った映画です。


昭和30年代、東京の下町の修理工場が舞台です。 実はその映画を作る1年半ぐらい前に東京からいきなり電話がかかってきまして、うちに取材に来たいということになりました。 うちのホームページに「会社の創業からの歴史」というのを入れているものですから、検索してそれを見られたようで、たぶんぴったりでしょう、ということでお越しになりました。


その映画のもともとは、アニメなんですが、その映画に出てくる俳優の堤真一さんが修理工場のすごい頑固者の親父で、一平少年という8歳の少年も出てくるんです。 ちょうど私は昭和25年(1950年)生まれで、昭和33年と言うと、8歳です。 まさにその一平少年の世代で、『3丁目の夕日』そのものが、うちの昔の修理工場そのままなんです。

ものすごくなつかしく思うんですね。よかったら見てください。 すばらしいです。 この世代の人は必ず泣きます。 途中はずっと笑いますけど、最後にはぐっと泣いてしまうような場面が絶対出てきますから、ぜひ見てほしい。


最後の最後に、エンドロールのところに、協力ということで、「ウジタオートサロン」という名前が出てきますのでそこまで見ていただけたら非常にうれしいですね。 本当に忘れていた日本の古き良き時代というか、戦後の高度成長に向かうような頃のほのぼのとした温かさのある中に人情味を感じられるようなそんな映画なんです。


私はそういう家庭に育っています。


18歳、高校三年生のときに父親を亡くしましたので、よそへ働きに行くこともなくこの仕事に入りました。兄が二代目を継いだのですが、2年でダメになって、20歳のときに、「どうせやったら僕がやろう」ということで三代目を継ぎました。 実は関西大学の二部にも通ってました。格好よく言うと、親が死んでもどうしても大学に行きたかった、、、不細工に言うと、昼間の大学は受けても通らんやろうから夜学に行った、というふうなくだりです。


4年間大学に行くために、昼間は自分の兄のやってる会社で働きながら行こうと思ってたんですが、途中で兄が辞めちゃったもんですから、最後は何とか必死の思いで卒業しました。


4年目のときは、履修した授業が全科目取れないと駄目。 つまり「可」ででもいいから全部通らん、と卒業できなかったんですけど、なぜかそれでも卒業できました。 実は卒業する直前に結婚したもので、これで落ちてたら学校を辞めようと思ったんですけど、何とか卒業できた、という状態でした。





●<第2回:言葉のご縁>


はっきり言って私は何ら特別の教育も受けていません。 家もそういう時代の修理工場ですから、いわゆる、きちっとした家庭ではありません。 本当に世間知らずのまま世の中に出て行ってました。


とりあえずは自分の父親(オヤジ)が言ってた、「手に職さえ付けといたら良い」の実践でしたね。


うちの父親(オヤジ)も尋常小学校を卒業して、今宮工業高校の夜間を出てるんですね。 自分の夜間学生にも通じてるんでしょうかね。


父親の自慢話ですけど、修理工としては、その時代ではかなり出来た人やったと思うんです。 ほんとに修理の仕事に関しての技術はすごかったと思います。


うちの修理工場というのは、終戦後すぐの昭和21年に今の帝塚山で仕事をやり出して、法人登記したのが昭和25年です。 先日、出した決算書は第56期目でした。 その年に私は生まれてます。


ついこの間までは会社の工場の中には旋盤の機械とかホーニングマシーンといった部品を加工するような機械や特殊な工具、道具もいっぱいありました。 昔は進駐軍の払い下げの車の仕事とか、まだ車を使う人が少ない時代に自動車の整備や二輪車を触っていたというような工場でした。


うちの親父は「学歴みたいなのはいらん。仕事さえできたらええんや」という考えでした。それを一番代表するのは、終戦後すぐの、、、、、、まだ制限のある時代に自分で部品とかを輸入してるんです。 その許可を取るのに英語を書かないといけないんですけど、うちの親父、氏田寅吉はTorakichi Ujita(トラキチ ウジタ)と名前はじめ、英語を書いて許可証を取っているんです。


それはそれはとてもじゃないけど、あれは英語じゃないですね。 子供の私としては、もう涙が出るくらいの書類ですね。 学校も満足には行ってないし、教育も受けてなかったと思うんですけども、それでも絶対の自信がある人でしたね。


当時車に乗る人たちというのは超一流なので、その人たちと直に話をしたり直の取引をしたりするということで父親(オヤジ)としてはそれなりのプライドを持ってたと思うんです。とにかく、「手に職さえ付けといたら良い」、「学歴みたいなのはいらん。仕事さえできたらええんや」と言う調子です。 私はそういう家に育ってました。


サンゆ倶楽部に入れていただいた時、私は会社で見よう見まねで仕事をしてました。 とりあえず食っていくことが一番で、誰にでも頭を下げて、お礼言って、おべんちゃらするということが商売やと思ってました。


サンゆ倶楽部に入れていただいて、松下幸之助さんの本と出会いました。 そしてその本の中に「適正利潤」という1つの言葉を見出しました。 これを見たときに、本当に自分が目から鱗というか、思わず「そうなんや」と感心しました。


実はそれまでは商売というのは右から左、こっちで仕入れてきてなんぼ儲けてこっちで売るというそんな
小汚い事やという風に感じてました。そこで「適正利潤」という言葉と出合った訳です。 そうなんや、「適正利潤」を儲けさせていただいて相手さんのお役に立つということが、これがほんまの商売、と思ったのが仕事に対する一番見方を変えた時期やったんです。


それでも、いかんせんお客さんにはいつも、へいこらしてました。 頭を下げまくって「はいはいはいはい」と米つきバッタじゃないですけどね。 今うちの社員さんを見ていると全く一緒なんです。皆さんには非常にかわいがられるし、よう頑張るんですけど、昔の自分を見てるようですね。


きっと彼らも何かどこかで私の「適正利潤」と言うような言葉を見出して、ポーンと心にはまるようなものが見つかる、

「言葉のご縁」

があるやろなと思っています。





●<第3回:本ものの生き方( 岡田徹詩集から )>


今日のサブテーマの「ご縁に生かされて」というのは人、言葉、 そして組織とか、また後に出てきますが、
諺(ことわざ)とかも含めてお話したいと思います。


今日の資料の中に「本ものの生き方」というコピーを入れさせてもらっています。  これはサンゆ倶楽部が中崎町の「生きがい研究所」の看板のある所でのゲスト会の事です。


当時ミスタードーナツの北山勲校長に講演を聞かせていただきました。  ダスキンやミスタードーナツの創業者である鈴木清一さんのすばらしい話の時に、 資料の中の「本ものの生き方」を北山さんがお話になられたんです。 ちょっとだけ読ませてください。


「本ものの生き方」 ―商売に生きるー

金さえ儲かればよい それが商売というものだとこう思い込んで あたら働きがいを あくせくと過ごしてしまってはいないだろうか。

―― 何がしかの生計の資(もとい)を得たいばっかしに あなたは今日もペコペコと頭を下げ うわべだけの笑顔をつくり モミ手をしながら嘘八百の説明をして 僅かのゼニをお客から奪おうとしている そういう商売の仕方を 恥ずかしいことだとは思わないのだろうか!

もし商売というものが 自分の心に、自分の手で、糞をぬりつけ 人間の誠実さ、美しさ、温かさをいけにえとして わずかのゼニをつかむだけのものであるなら、 今日限り そんな恥ずかしい商売は止めてしまおうよ。

親子五人、­モク拾いしてでもよい ニコヨンになってでもよい。 もっと生きがいのある、 もっと誠実にくらせる、 そして モット大手を振って大地を行く 生き方をしようよ!

―― だが、私は信じる、 あなたがいよいよ今日 死ぬという間ぎわに あなたの子どもたちを集めて 「お父さんは立派な商人だったよ」と ハッキリと、自慢のできる商売の道がある

―ということを。


これを見せていただいて、先ほど言いました幸之助さんの 「適正利潤」の次に これこそ、最高の詩を贈っていただいたな、と思いましたね。  家に帰ってカレンダーをちぎって裏に大きく、全部書きました。


そのときは末娘がまだ生まれてなくて、実は親子4人やったんで、、、 親子五人、を親子四人と書き換えて、 これを自分の部屋の見える壁に貼り付けて それこそ、それを毎日見ながら、、、、、


「商売というのはすばらしいな、俺のやってることは絶対間違ってへんねんや」
と思ってやってました。  30歳前後やったと思いますが、 この頃がちょうど商売に関する自分の切り替えが有ったように思います。


実は前回サンゆ倶楽部の25周年のパーティーをやったときに、その北山勲さんにお越しいただいたんですよ。  私はね、ずーっとこの詩を鈴木清一さんの詩やと思ってたんです。 あらゆる本を買うたびに、本屋さんで「ダスキンの創業者、鈴木清一さんの詩」をって、この「本ものの生き方」を言って探してたんです。


北山さんに聞いたら、「いやー、あれは違うんです」ということでした。  二十年以上、勘違いしてたんです。  岡田徹さんという方の詩らしいんです。  作者を永い間、間違ってたとは言え私には心打つ、 これも言葉の 『ご縁』 でした。





●<第4回:団体・組織での「ご縁」>


さて、サンゆ倶楽部のおかげで、私には先ほどから何度も言ってような「ご縁」がいくつもあります。 入会していきなり高田先生に塾の担当を当てていただきました。


当てられたと言うと聞こえがわるいですが、そのときの教科書が 「ライフワーク実践ノート」というタイトルでした。  この本を読んで1ヵ月後にそれを皆の前で報告し、塾を進めないといけないのです。


私にはもうたまらんかったんですね。  このサンゆのメンバーさんだからはっきり言いますけど、 実は、その当時、私は本は読まない、新聞も読まない、ラジオを聞かない、テレビも見ない、 そういう事は一切、やらないという人間やったんです。


当時はサンゆ倶楽部に行って、それを自慢げに喋ってましたね。  「パーソナルコミュニケーションや。人との対話、人との交流で生きていくんや」と 偉そうなことを言ってました。  たぶん、メンバーの皆さんは笑いながら、「この青二才は何を言うとんのか」という感じだったと思います。


サンゆ塾で「とりあえず、この本を読みなさい」と言われても学校の宿題やないからね、 その本を読んで、レジュメを書くいうのがたまらんぐらい嫌やったんです。


ところがその時に読んだ「ライフワーク実践ノート」、 その後サンゆのロビーで、勉強(?)した「KJ法」とか 「ブレーンストーミング」とかいうのを本気で教えていただきました。  それらが私にとっての自己啓発への入り口やったと思います。  それから非常に自己啓発に興味を持つようになりました。  それまでは何も知らんと30年足らず生きてきたけども、  それを読んだときに思わず膝をたたきたくなるような、
「そういうことやったんか、それでこうやったんや、あーやったんや」 というのがいっぱい分かってくるわけです。


他にも座禅がええらしいと言う事で天龍寺に行きました。  座禅をするのにサンゆ倶楽部から関連の「経龍会」に入れていただきました。  何もわからなくて初めて行ったんです。  その場では薄い本とかコピー等を使って、平田精耕さん(現管長)から法話いただきます。


座禅中の警策(けいさく)は田原和尚(現、寶厳院http://www.hogonin.jp/)にやっていただいてました。
そのときサンゆ倶楽部の中川さんと初めてお会いしました。 確か手術した後、来たはったと思います。
この人が誰か分かれへんねけど、「手術して大変でどうのこうの」と言ってはったことだけ覚えているんです。あとでそれがザ、パックの中川さんやというのがわかるわけなんです。後に仕事の展開中に思わぬ励ましを頂きました。


他にも、いろんな人がおられました。 林さんは「衣食住を俺が制覇する」と言って、衣料関係に勤めてられたんですが他部門の建築関係はご兄弟をつかってやっておられたと思います。 私が当時30歳ぐらいのときに、他のサンゆのメンバーさんで40歳位の方がほんとにすごかったですね。


ギラギラしてるというより、皆さん魅力的でしたね。 その後、メンバーが何人かで共同事業をやりはりましたね。何の事業やったかな?何かやりはって、結局失敗に終わったみたいですけど、そのやるときの勢いは見てたらもうほんますごかったですわ。


こんな事もありましたね。私がビンゴゲームを初めて知ったのはサンゆのクリスマスパーティーでした。
紳士服関係の和田さんが用意してくれた服のボタンを並べてビンゴゲームをするんです。 その後、私はずっとビンゴゲームはボタンを並べるものやと思ってました。あの数字が打ってあって用紙を曲げていくというのは全然知らなかったです。 笑い話ですけども・・・ビンゴゲームはあれがほんまやと思ってました。


実はよそでも知った顔してやってたんです。ある大きなパーティーでビンゴゲームというのは、数字が無造作に出てきて、「えー、こんなんやったんかいな」と思いました。 えらい恥かいて「あんなん言うててんな」と思いましたね。


また、司会進行、企画話、営業、事務の進め方、手帳の書き方から何から何まで色々と教えてもらって、、、、これのノウハウがないと今日の私はほんまにないと思います。 毎週水曜日の夜はサンゆのロビーに行くのが本当楽しみで、どれだけ遅刻してでも行こうとしてました。


うれしいのはたいがいの会は遅刻して行ったら嫌な顔されるんですけど、あそこだけは笑っていただけるんですよね。 帰りに高田先生に天王寺迄お送りしましょうとお誘いして、車に乗っていただいて聞けるアドバイスが私にとっては無料の本当にすばらしいコンサルテイングでした。 話の時間が足らんときは「先生、羽曳野まで送ります」と言って、その間ずっといろんなことを聞かせてもらいました。 それらが仕事、人生いろんな中でものすごい役に立ってきたと思います。


そんな中でメンバーさんのお勧めで「AIA」の研修に行かせていただきました。 1つだけ「人間は考えたとおりの人間になる」という言葉が強烈にずっと頭の中にインプットされています。 「人は考えたとおりの人間になる」、つまり自分で思っている以上にはならない!


仮に以下になることがあっても、自分が思ってる、考えてる以上になることはあり得ない。 と私は理解しまして、自分の目標設定とか自分の考え方を高く持たなければいけないと思ったわけで、これらも諸々の「ご縁」でした。




●<第5回:街づくり活動二十年>


さて、私の活動の中に「街づくり20年」があります。


地元の帝塚山で街づくり交流会というのをやっております。やっておりますというとおおげさなんですが、ある人に呼び込まれて、と言うかアドヴァイスを受けて「帝塚山街づくり交流会」というのを起こしたわけなんです。


ちょっとだけ端折って話をしますと、帝塚山の中心的な場所に中村禎二さんという日本画家の方の家がありました。 亡くなられたときにそこの敷地が売られて更地になったんです。 帝塚山で生まれ育った私は更地になったときに何か建つんかなと興味を持ったんです。


壁が崩されたら中に大きな看板がありまして、「帝塚山らしさって何やろ?」って書いてあったんです。 「なんやこいつ?」と思ったんです。  当時、帝塚山では世代交代が進んでいて、大きな家がつぶれたらマンションが建つ、建売ができるというパターンやったんですね。 ところがその跡地には残され事務所代わりの蔵と、「帝塚山らしさって何やろ?」という看板があったんです。


そこに入っていったというのがこの街づくり活動の話の始まりなんです。 それが昭和58年です。サンゆ倶楽部入れていただいてから5年ぐらいたってるころで、年齢も若かったし、こちらもいろんなことができる頃やったと思うんです。


そこからとりあえず、知り合いを2人、3人集めて、3人が9人を集めて9人がさらに20人を集めて「帝塚山街づくり交流会」というのをやり出しました。 最初のイベントを始めてから今年で20年になるんです。


今はこの地域には大きなイベントが3つほどありまして、5月に「帝塚山音楽祭」これは数万人を動員するぐらいのすばらしい音楽祭です。 8月にやりますのが「帝塚山まつり」と言いまして、読売の『24時間テレビ』と協賛してます。 たまたまうちのとなりに大屋政子さんが病院を持っていたということが縁で、大屋さんと親しくなって読売テレビを巻き込んでずっとやっております。 もう1つは帝塚山でゴルフの好きな人を集めて「帝塚山ゴルフカップ選手権大会」という名前で地域のゴルフコンペをやります。これは19年目です。


自分で言うのもなんですが、これらの活動は本当にすごい事です。 そういうふうなことをやってるんですけども、1つ言えることはですね、私は生まれついたのがたまたま帝塚山だった、というだけの事なんです。 帝塚山でも下町の小汚い、薄暗い修理工場の2階が私の生まれた場所です。 今もそこの場所がうちの本社機能でして、私が生まれ育って初めて仕事をやり出した場所なんです。 そしてそこが生まれて育った場所です。


そして、明治40年生まれの氏田寅吉という職人肌のガチガチの頑固親父と大正2年生まれの伊保子という気遣い性の母親、その両親に私は育ててもらったんです。


この話をするとこれだけで1時間やって、また泣いてしまうので、もしご興味があれば、ホームページに書いています、「社長の講演」とか、「会社創業の歴史」を読んでください。 うちは「たこつぼのホームページ」と言われてまして、はまる人はこれにはまって、うちのファンになって頂けるようなホームページなので、もしお時間があればぜひ覗いてください。


ところで一体何を言いたいのか? つまり私たちは生まれ落ちた環境、つまり育てて頂いた両親、ましてや場所などは自分からは何ら選択の余地のない、一方的に与えられたものなんですね。  これこそが人間最大の『ご縁』と思うわけであります。 宗教的と思われるかもしれませんがだからこそ、『ご縁』、両親はじめ、ご先祖さまに感謝しなければならないんですよね。





●<第6回:積善の家に余慶あり>


かって森信三先生の『修身教授録』というのをうちの店長教育に使っていました。 なかに「人身うけがたし」という項がありまして、それをコピーしてきました。 私のホームページ『社長の講演』〈その1〉の「人生二度なし」に載ってますから興味があったら読んでください。


解り易く言うと「あんたは人間として生まれついた有難さをわかっているのか?」という項目があるんです。 あんたの力でこの世の中に生まれてきたのではなく、また今持っている能力というのは両親やご先祖さまの能力の引継ぎやと。


今わたしたちが持っている能力、例えば今この中に超天才がおられても、その人が自分の努力やと言うかもしれませんが、それはそうじゃなくてご先祖さまからのたまたまDNAであるわけで、そんなものを自慢してはいけないわけです。


たまたま自分が男前、たまたま自分が美人であろうともそんなものは整形手術でもせん限り、親やご先祖さまからの与えられたものなんです。それを思ったときに人間の力は本当に些細なものなんちゃうんかなと思ったわけです。


この間、松下政経塾の元塾長上甲晃さんの「志ネットワーク」の創立10周年で東京に行ったときに、
『命の祭り』という本を頂きました。 この本に書いてあるんですよ。 「私が1人でお父さんとお母さん、そこには各々お父さんとお母さん、すなわち、おじいちゃん、おばあちゃんが4人おる、これをずっと遡(さかのぼ)っていけば、、」という話です。  これは全部人間の数なんです。


以前、幸之助さんが思いついた「万物生成発展の法則」というのがあったらしいんですよ。 この言葉ともう1つは「宇宙大根源の法則」ということを年いかれてから、いきなり言い出したらしいです。


「上甲くん、不思議やと思えへんか。わしが1人おって、親が二人やと。 そうするとその両親、おじいちゃん、おばあちゃんが4人やと。 これを遡っていったらどないなんねん」ということをおっしゃったらしいんです。 「ずーっと遡っていったら莫大な数の人間がおって、ひょっとしたら莫大な人間な数はその当時の地球の人間を上回ることがあった時はどないなるんや」と、こういう質問をされたらしいんです。


「これは不思議ですね」と。 皆さんおわかりやと思うんですけども、私が1人ですね、お父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、これで7人居るわけです。 これを自分が一代目として二代、三代と二十代に遡って三角形にとってみたら何人になるかご存知ですか? 知ってはる方、ちょっと言っていただけませんか。想像で言ってください。


そうですね、遡ったら100万人ですよ。たった二十代遡っただけでですよ、たぶん200、300年ぐらいですかね。ということはそれをもっと遡っていったらどないなるか。 そして、その血が脈々と今の自分に流れてきているわけですよ。 と言う事は私が偉そうに言っても、実は私がやったことではなくて、ご先祖様のおかげが今きているだけなんです。


もう1つ言えることは、言葉が間違っているかも知れませんのでご勘弁いただきたいのですけど「親父やお袋が精一杯生きてきたおかげが私にきている」と言う事です。 そうすると「私がどんな生き方をしてもええんか」ということになるんですけども、私がせいぜい精進して一所懸命生きておかんと、私の子どもたちや一緒に仕事してる人が良い目が出来ないということを感じるようになったんです。


これを、「積善の家に余慶あり」と言うんでしょうかね。


さて話は変わりますが私は非常にお墓参りが好きです。 父親を亡くして、ちょっとしてからお墓参りに行くようになりました。 うちの親父が8月10日、母親が4月19日なんで、月2回はお墓にお参りします。
何をお参りするのか、言うと、ご先祖さんにお願いするというより報告ですね。


元気でやらせてもらってます。こんな事が起こってますが一生懸命やってみます。結果は一体どうなっていくんでしょうかね、、、、とです。そんな事を思いながら、『ご先祖様のご縁』のお陰で生かしてもらっている事を実感しています。





●<第7回:人様からの応援>


さて、はっきり言いますと、私個人では何の才能も何の力もないんです。 ただ、もしあるとしたら、運がいい、言葉を変えたらお徳やご縁に恵まれているという、これしかないと思います。


誤解を受けるといけないんで軽く聞いてほしいんですけど、私は20才代で目一杯生きて、30から40才にかけての時はある意味、これだけ頑張ってきたという自負があったんです。 ものすごく頑張った、と自分でも思っていましたし、ほんまに自信がありました。


ところがいろんな業界団体に行くと、「あー、お前二代目か」とか「そうなんやー、帝塚山の車屋の二代目のボンボンか」とか言われたんです。言われるたびに、「ぐーっ」ときてたんです。 若かったんですね。


「ちゃうんや、俺がやったんや、俺がこうやって、あーやった」とかね、苦労話を聞いてほしくてたまらんかった時があったんですよ。  例えば、私は18歳で仕事に付いて、20歳で自分が代表になって、38歳のときに念願やった帝塚山に63坪の土地を買ったんです。 それも20年貯めたお金をもとに頭金にして、自分の技量で買ったと思ってたんです。  しかしお金はたらなかったんですから、自分の力ではありませんでした。


じゃあ、何で拠点展開出来たのか? この話も知ってる人が多いから隠さず言いますが、たまたま紹介で行った銀行さんがスポンサーでした。  紹介者から推薦してもらって、ご近所からの聞き合わせ、そんな事が功を奏したと思います。 その銀行さんには大変お世話になりました。でも決して図っての事ではなく、結果そうなったんですよ。


勿論、20年間コツコツ貯めた、月々5千円とか一万円の積み立ての通帳を「こんだけ貯めましてん」と見せてましたが、、、。  そんなこんなで、いきなりぼーんとお金を貸していただいたんです。 それも、自分が思っていたよりも1つ桁が上のお金を貸して頂いた経緯があるんです。  そんな金融機関の方との「出会いのご縁」、、、、、、結構ありましたね。


笑い話ですが、もしその時の融資実行がなかったら、今の形態は作れていなかった。 その代わり、借金の返済に悩まなくてもよかった、なんてね、、、、


それから、一番苦しいときにこのサンゆ倶楽部の中川喜之さん(元ザ・パック副会長)からもメッセージをいただきました。


「昨年からアメリカの会長も兼務して日米を往復しているという、私の人生にとって今ほど充実感のある日々はありません」と中川さんが書いておられ、「ところで氏田さんもいよいよ事業発展のようで何よりです。心からお祝い申し上げます」と書いてくださったんです。


「ささやかな人生のふれあいですが、友人、知人が頑張り発展されているのを知ることはうれしい限りです。 今後もより一層努力され、すばらしい事業の発展と、氏田さんのご活躍をお祈り申し上げます」と手紙に書いてくれたんです。


当時、私にとって中川さんは高嶺の花ですから、すごい人から手紙をいただいてうれしい反面、「こんな風に思っててもらってええんかな」と思いました。 でも実はこれはものすごく発奮の材料になりました。


他にもホームページの「社長の対談」にも登場頂いてますが、大屋政子さん、イエローハットの鍵山秀三郎さん、元松下政経塾の上甲晃さん、モスバーガーの故櫻田慧さん、などの本気(?)の方々にもたくさん励ましを頂きました。  「そうや俺には応援してくれている人がおるんや」と何度も思ったことがありました。


わが社のミッションステートメントに「、、、、、、ご縁に感謝し、貴重な時間と空間を共有出来ることを喜び、、、、、」 と有りますが、物心両面においての人様からの応援こそ、「めぐり合わせのご縁」と思っています。





●<第8回:小才、中才、大才>


それで、積善の話はいいとして、次は「小才、中才、大才」についてです。


小才は袖擦れ合うも縁を気づかず、
中才は袖触れ合うを気づくが生かせず、
大才は袖触れ合う前に縁に気づく!


「育縁、活縁、尊縁」いうふうな話の中では1つは縁を見つけ出すとか、関連付けるというコツがいると思うんです。 サンゆ倶楽部でよく言われる、『人的財産』っていうのが本当にものすごくあると思うんです。


はっきり言いますけど、高校しか出てなくて夜学の大学もほとんど行ってへんような奴(私)が、それもちっちゃな規模の仕事してるおっさんのくせして、「なんでお前そんな人を知ってんねん?」という場面がよくあります。


この年になって余計に思うんですけど、自分でも「なんでこんなんやろな」と思うことがあります。
顔の面積と同じでとんでもないぐらいに本当に顔が広いんです。


今年、徳島から高校を卒業して若い子が1人入社してきてます。その子を連れて研修でいろんなことをやっているんですね。 今、豊中に勤務させてて、この間も万博公園で「ホタルの夕べ」というのがあってそこへ行ったんですよ。


そしたらかなりたくさんの人が来てました。 駐車場からずっと真っ暗がりな中を歩いて行って、人一杯の中を歩いていくんですよ。 ずーっと歩いて行ってやっとホタルを見つけて「おーきれいやな、来た甲斐あるなあ」って言うたら横で「ほんまですねえ」って女の人が言ってきます。 ぱっと見たら、そこにおった人が帝塚山音楽祭の実行委員長をしてる加藤さんでね、 たまたまそこで会ったわけなんです。「あ、加藤さん、こんなとこで会うねんなあ」、、、て。


このくらいのレベルでしたらいいんですけど、実はこの一緒に連れてた 新入社員と、その5日ぐらい前に地下鉄に乗ってました。 「このごろ商談してもお客さんに逃げられてばっかりで、ずっと電話も出てくれへん。 つらいもんやで営業も、なあ・・・俺は役に立つと思ってやってるのに、向こうが嫌がってはんねんや・・・そやけどこれもしゃあないしなあ」って言ってました。 夜8時半ごろですが、たまたま満員電車に乗ってたら、梅田からピッとドアが開いて前から乗ってきたのがその人でした。


「うわあー、Kさん、ここで会ったが100年目」とか言って向こうもびっくりするんです。そんな事が1週間の間に2回もあったんです。


その新入社員が「社長、大阪って広いと思ったけど社長はすごい人ですね」とそんなことを言い出してました。私の場合はほんまによくあるんです。


何年か前には海外に行ってて、帰りの空港で飛行機を待ってるときに、ぱっと前から来た人がうちの娘の同級生の両親でした。 先方は娘さんを連れてのご家族で、私は仕事やったんですけども、「うわぁ、えらいところで会いますね」、でした。


向こうはそのままファーストクラスに乗って、私はエコノミーに乗って帰ってきたんです。 これは育ちが違うんですね。もっともこれは関空行きなんでたいしたことはないです。


私どもではドイツから車や部品を買ってます。何年か前にハンブルグに、仕事で行ったんです。フランクフルトがハブ空港なので、そこからトランジットしたりするんです。 ハンブルグ行って日本人の通訳を雇って車や部品の仕入れをして3、4日おったんかな。 車買うだけ買ってさんざん大きな膨らました話を通訳の人に偉そうに言ってました。 帰国の時にカートを押しながら歩いて行ってたら、 近所の中学校のときの同級生の高橋という友人に会いました。


「おぉー、久しぶりー」「氏田、何してんねん」「ちょっ仕事やってん」「ほんまぁー」とか言ってました。
通訳の人に「ハンブルグで日本人に会うことはあってもそんな近所の人に会うんですかね」って言われました。 「会うんや、不思議やろー」って言うたんですけどね。 ほんまによくあるんです。だから間違っても悪いことはできないですね。 


もう1つ余計なことですがおもしろい話をします。


以前、娘をNHKホールに連れて行ったんです。開演まで時間が有り、「ちょっと勉強しとこう」ということで
隣の大阪歴史博物館に行きました。 エレベーターに二人で乗って最上階迄上がって行きました。
最上階でエレベーターが、開いたらその前にわが社の30年来のお客様がうら若い女性と腕組んで立ってたんです。


「うぉー!これはどないしたらええんかな」と思ってたら、向こうも一瞬ぱっと離れました。うちの娘が「あ、Mさんや」そしたら「社長、久しぶり」とさりげなく言って、2人で汗かきながら娘にバレんようにと思って、その場を繕いましたね。


娘はあとで母親に「今日はすごいことがあったよ」と言うてたらしいから・・・ ばれてたんですね。 そういう話もありますので、やましい事のある方(?)は私のそばにあまり近づかないようにしてください・・・ 


私は物事や人物を関連付けるのが本当に得意ですね。


ちょっとだけサンゆ倶楽部に絡む話だけを端折って言います。 サンゆ倶楽部の何周年かで朝日新聞の西垣戸記者が取材に来ていました。 そのときに、私が式典の司会をしてました。 


その後、近所の阿部野神社にその西垣戸さんが取材に来はったんです。 当時私は阿部野神社で氏子青年会の会長をしていたんです。 会長とかと言っても、その年にできた氏子の青年会で、発会の時にネクタイ締めてスーツ着てたんが私だけだったんで決まったんです。 やっぱり会長はスーツ着てネクタイ締めてんと写真写されへんいうことでした。 そのイベントにたまたま来られて、「あのときの氏田さん」いうことになったのが縁なんです。


その西垣戸さんは「100円ラーメン哲学」という本を出してました。 そしてさっき言ってた融資して下さった或る銀行の支店長さんと知り合いだったんです。 前任の支店長時代にその本の、大阪飯店にいつも行ってたんだそうです。 その縁で支店長さんは西垣戸さんと大の親友やったんです。 それは融資が決まったあとでわかったんですが、、、


『100円ラーメン哲学』という本が支店長室にあったから、「なんでこんなんありますのん?」って聞いたら、「西垣戸いう記者はねー」ということになって、西垣戸さんとも急にさらに親しくなったんです。


そこから私が西垣戸さんに知り合いを何人か紹介したんです。 逆に西垣戸さ んが、元松下政経塾の上甲晃さん、モスバーガーの櫻田会長を紹介して下さいました。


その上甲さんから「大阪で自主上演会をしたいから」ということでイエローハットの鍵山秀三郎さんを紹介されたといういきさつがあるんです。


そのときに、人間同士、出会うのはすばらしいということで、「人間行脚の会」というのを作ろうと西垣戸さんが言い出しました。「この会を作るんだ! 君が事務局だ」と言われて「わかりました!」と言って私は走り回りました。


その後いつの間にか西垣戸さんとは疎遠になりましたが、上甲さんにも鍵山さんにもずっと親しくさせていただき、そういう縁を結ばせていただいております。


そんな話でもそうなんですけども、ある人間と知り合いになったときに、いつも思う事があります。
これは母親ゆずりなんですが、誰かと知り合いになったときに、どうしたらその人に喜んでもらえるかというのを考えるんです。


もともとは車屋ですから、車を安く売ったら喜んでもらえるとか、修理を早くしたら喜んでもらえるとか、融通してあげたら喜んでもらえるというふうに勝手に身に付いてました。


ところがそれは商売として当たり前なんですね。そうじゃなくてもうちょっと上のステージのことをやらないかんわけです。


昔近所に某同友会みたいなのがありましてそこに入れ、と言われた事があります。 そのときに会長みたいな人がおって「君、自動車屋やろ、入会したら車売れるで」と言われたんです。それで「ん?」と思いましてね。


紹介者がSさんやったんですけど、」その会長から「S君、なんか車買うたれや。入るの条件で買うたれや。そしたら1名動員できるやんけ」と言われたから、プツンと頭が切れてしまいました。 「買うていりません。よろしいわ、そんなんで入らなあかん会やったらやめときますわ」と、やった事があります。


このサンゆ倶楽部の一番好きなところは、異業種交流会で、なおかつ私のお客さんが居なかったことです。 だから言いたいことが言えるし、しゃべりたいことが喋れる訳です。


そんな風にやってるうちにだんだんそれが当たり前やと思うんです。 だから今、私のビジネスは「値段が安いから、社長から買う」という人は殆どおられませんね。何か無理を聞かしたろうという人は本当におれへん。お客さんの層が全く変わりましたね。


商売やり出して、そこそこになってきた時は「ここの社長と友達やから来た」とか「社長を呼べ」とか言って
ちょっとでも安く、ええ目をしようと思った人が多かったです。ところが昔から今までずっと続いている人は、それはどうでもいいんですわ。


「氏田から買うてやりたい、氏田と付き合ってやろう、こいつを育ててやろう」
という人達なんです。 さて、それに対して私は何で返せるか?


「どうしたらお役に立つか」ということをいつも思うんです。 だから「この人の喜びそうなことをせないかん」とかいうことを常に頭の中に思ってます。 それをずっとやっているうちに頭がひらめいてきて、色々出来ます。


私は「自分に力がある」とか「自分は有名人である」ということではなくて、いろんな方を知ってたり、いろんなパイプをつなげるとか、いろんなルートがあるというのが1つの取り柄かなと思っています。


だからその点では大才かもしれませんね。





●<第9回:成功の反復>


さてもう一つ言葉のご縁ですが、「成功の反復」というのをサンゆ倶楽部で習った事があります。


サンゆ倶楽部では月1回「サンユ塾」というのがありました。 いろんな教科書をくれまして、それを勉強していきます。 今はちょっと形が変わりましたが私が入った当時はそんな事で進めてました。 その中の、何の本だったか題名は忘れてしまいましたが、「成功の反復」という項がありました。


人間というのは、何か自分で苦しいことにトライして、その苦しいこと、難しいことができたら、それ以後はそこまでは必ずできる、と自分で思えるようになるらしいです。 そして、その次、というようにまたやっていける。 


人間というものはそんな「成功の反復」の繰り返しであるという。 そしてその成功を少しづつ大きくしていく…そういうようなことが書いてありました。


よく分からなかったのですが、「ああ、これか」と思いました。 何かどっかまでうまいこと出来たら、次はそのレベルの事までは行ける。 そこまでのレベルは自分で自信を持っていける。 つまりステージを上げていけるという感覚で思ってます。


例えば「人前でしゃべってくれるか?」って言われたら「何人ぐらいですか?」って聞いてみて、最大で千人ぐらいは絶対大丈夫です。 自信を持ってしゃべれますね。 それは何でかと言うと、千何百人ぐらいの議員の応援演説をよくやらされるんです。 私はこれを必ず盛り上げられるんですよ。


それを自分で自己暗示をかけてまして、例えば千人ぐらいやったら、この人らを最後に必ず「今日は良かったわー」と言わせるように応援演説をする自信があります。 だから近所の議員は必ず頼んでくるわけです。「わかりました。」ってやりますね。 好きでも有るんでしょうが、とにかくスピーチで頼まれたら断りませんね。 対象が5千人ぐらいやったらちょっとわかりませんが、 1度見えへんぐらいの大衆を相手にやってみたいなという思いはありますね。


ところが商売はそうはいきませんね。 かって、すごくしんどかったことがありましてね。 どうして良いのかわかれへんようになった事があるんです。 そのときにたまたま天龍寺の経龍会へ行ってたんですよ。
何か悩んでいたときの事です。


国宝級の庭があって池があるんです。 池のほうから見たときに建物の廊下に衝立みたいなのがありました。  そこに「登龍門」と書いてあったんです。


要約すると「人間にはどうしても超えれないような壁にぶつかることが必ずある。 これを何度も何度もトライしてると、それをぽーんと超えられる。 そしたら、そこから一気にいける。」というようなことを書いてあったんです。


はっきり覚えていないし、説明しにくいんですが、それをぱっと見た時に、感じたんです。  天龍寺の国宝の庭でかじかむ手で掃除をしているときに廊下の衝立の言葉が「ストン」と心に落ちたんです。 


それが、「登龍門」でした。


それがどういう事だったのかは覚えてません。 ただ人間にはどうしても超えれないような壁に突き当たることがある。 そのとき超えようと努力するがなかなかうまくいかない。 ところが何かの拍子でそれをぽんと越えられると、一気に登れると理解してます。


それを見たときに「あ、これが今は俺の登龍門や。 これを飛び越えたら俺もいけるんや」と思ってものすごい自信になったんです。 「これやー! わかった! 俺は今、ここにおるんや!」と今の自分の場所が見えたような気がしたんです。


この言葉を知ったのが私にはものすごかったです。本当の言葉のご縁とは「これ」なんですね。  それからは何かあって「クー」ときた時には「これは登龍門や」と思うようにしてます。


それから、たまらんぐらい、いじめられて、コテンパンにやられた時には、『攀念痴(はんねんち)』、の三文字、これはお経に出てくる言葉だそうで鍵山秀三郎さんに教えらてもらいました。


『攀』は山を普通に登るのでなく、手足を使ってよじ登る様を言います! つまりは憎んだり、うらんだりするような事がエスカレートする、念のような状態を『攀念痴(はんねんち)』と言うのだそうです。


そう言う憎しみや恨みの攀念痴を抱くと夜は眠れない、食事がまずい、そして体も疲れる。 だからこう言う念は持った方が疲れるわけで、持たれた方は平気で高枕です。

だからこそこんなつまらない念を持って人生の貴重な時間をすごさない方が自分にとって多いに得だと言う事です。

これは本当にありがたい言葉ですね。  まだまだ言葉のご縁は有りますが今回はこれくらいにします。





●<第10回:夢の具現化>


次には「夢の具現化」という事について少し話します。

私は人生をかけて、この「夢の具現化」をしていく事が人間の究極の目標だと思います。 その為には限られた時間をどう生きるか、まさに『人身受けがたし』の心境を何時、自分のものと受け止めるかですね。


サンゆ倶楽部では最初の挨拶に「こんばんわ」、や「こんにちは」でなく「メメントモーリ」という言葉で、
「あなたは必ず死ぬ、このことを忘れてませんか」と言い合います。 最初は「メメントモーリ」と言われたときに、ピンと来なかったんで、「これは何語ですか」と聞くとラテン語だそうです。


つまり大事なことは、やっぱり「メメントモーリ」(サンゆ倶楽部)や「人生二度なし」(森信三)、ということであります。 ちょっときつい言葉ですが、何年かしたら今ここにいる人たちはほとんどこの世の中から必ずいなくなります。


人は間違いなく必ず年をとる。親が死んで、友達も死んでいく。 私はたまたま父親が早く亡くなったけれども、これは早いか遅いか、みなさん必ずそうなります。


100年もたったら、誰も周りにはいないわけですから、もしこの事を18歳のときに気がついて気に留めていたら、もっと気合入れて生きてきてた、というようなことです。


ただこの「メメントモーリ」を知ったのが私が27歳でしたから、10年ぐらい損をしたということです。 以前、松原中学校のPTAのお母さん方に「夢を持て(求められる子ども像)」、と言う題でお話しした事があります。


誰でも知ってる、わかってる事なんですが、何故か皆さん自分には例外的に考えたり、真剣に考えようとしない!だけどそういう言葉で我にかえって真剣に生きて欲しいので話しました。


少しでも早い時期に「メメントモーリ」(サンゆ倶楽部)や「人生二度なし」(森信三)と言う気持ちになって、各自の夢を具現化するような生き方をしなければ、折角の人生という機会を損するような気がしますね。


これもサンゆ倶楽部でいただいた「メメントモーリ」からのご縁で気づいた事でございます。





●<最終回:育縁、活縁、そして「尊縁」>


最後に、本日お招きいただきましたポイントで、育縁、活縁についてちょっとお話をさせてもらいます。


私はいろんなところでご縁をいただけてきてると自分で思っています。 今日の話の通り私は『ご縁』に生かされてるということです。 それは人の縁であったりグループ、団体、組織とのご縁であったり、言葉と言うのですか、お話とか諺(ことわざ)とかそういう事のご縁である訳です。


このメインテーマであります「育縁」「活縁」ということを考えたときに、その「増殖法の秘訣」ということがポイントだと思われます。


例えば、私がどなたかとお会いする、また、どっかの会に入れていただく、そこで何か物事を聞かせて頂く。 いずれの場合にもその人や場所と、私とのご縁を見つける? ご縁を見つけ出すということに対して、非常に努力します。


こじ付けかも知れせんけども、いろんなことを考えたり、何かその間の縁を見つけ出す、そしてそれを育てる、活かすということですね。 それが「育縁」「活縁」という事だと思うんです。


私は『ご縁』というのを育んでいくのがどちらかというと得意です。 また一度得た縁というのはやっぱり大事にしたい。 これは「尊縁」というんですかね、 ご縁を大事にしながら人生を生きてきているような気がします。


「尊縁」というのは、縁を敬い、大切にするということだと思うんです。どっかでどなたかとお知り合いになったら、できるだけ関係を切らないようにする。「つかず離れず」とよく言うんですけど、相手さんとの間にちょうど良い間をおく。


昔、人から聞いた言葉で「盛んなときには行くな」があります。 相手さんが異常に調子がいい、景気がいいときには人は一杯集まるから、そのときには、あえてそちらさんとおつきあいをしてもらう。 ところが相手さんが何か苦境に立ったり、苦しいとか困った時にこそ、自分はその縁をさらに育てるというか大事にしたいと思います。


また、私はたいがいの会に入ったらよっぽどでない限りは辞めないんですよ。 スリーピングでも絶対続けますね。 そこの会にいて、本当にスリーピングで、えらいメンバーやなと思われるかもわかりませんけど辞めませんね。


よっぽど何かがない限りは、フロアーメンバー、スリーピングメンバーと言われていてもそこに在籍してその関係を切らないということが大事かなと思います。


いずれにしろ、私は総括的には会った人、ご縁ができた人、ご縁ができた団体、組織に対して、どうしたら相手の役に立てるのか、一体どういうことをしたら相手さんに喜んでいただけるのか、を常に考えています。


ですからそれこそが、私が『ご縁』のおかげで今日まで生きさせてもらえた、生活もお仕事もさせてきてもらえたことのキーポイントかと思う次第です。


今日の最後に寺田一清先生が書いておられた、森信三の「人間の一生」という言葉との『ご縁』を紹介して終わりたいとおもいます。


これを見て私はいつも元気を出してやっています。たぶん皆さんも心に思われるところもあろうかと存知ます。



「人間の一生」 (森信三・魂の言葉)寺田一清著



職業に上下も なければ貴賎もない。 世の為人の為に役立つことなら、何をしようと自由である。
しかしどうせやるなら覚悟を決めて十年やる。すると、、、、.  < 中略 >


「これからが仕上げだ」と新しい気持ちでまた十年がん張る。すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。 だが、人並みの人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年がん張る。


すると、七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。しかし、それからまた、十年がん張る。するとこのコースが一生で一番おもしろい。


つまり、七十の祝いが境だと、ここから10年がん張ると、このコースが人生で一番おもしろいとの事です。 八十に向かってが人生で一番おもしろいらしんで、私も気合入れないかんと思います。


私はまだ57歳ですからまだまだ青二才なんで、そのつもりでやっていきたいと思っています。


どうもご清聴ありがとうございました。  (完)


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