弊社会長の講演  <その2>


弊社会長の講演シリーズ  <その2>



2003年7月8日(火)  大阪府立松原中学校  「夏の夜の集い」

テーマ 「夢を持て(求められる子ども像)」から

講師  氏田 耕吉

●<第1回:はじめに>


私は氏田耕吉と申します。


本校の近藤先生にご縁をいただいておりまして、先般、突然電話がありまして、一度話してみたらと言われたので、今日はお越しいただく皆さんにご迷惑かな思いながら引き受けさせていただきました。


本当に車屋ですのでなかなか人の前でお話しするチャンスはありません。ましてこういう学校の行事で話をさせていただくというのは実は自分としては非常につらいものがあります。


まして教育やお話のプロの方々もお見えですから、行き届か無いと思いますが、、今日は終わるまではこの部屋から出られませんので、ひとつお付き合いいただきまして、ちょっと話を聞いてみてください。


うまくはしゃべれないかもしれませんが、とりあえずは一生懸命やってみたいと思いますので、よろしくお願いします。


私は、しゃべりだすといつも脱線しますので、お手元にレジュメを作ってお配りさせていただいております。


今日は「夢を持て(求められる子ども像)」ということでテーマをいただいております。


どういうふうにしゃべったらいいかなあと思いまして、久しぶりに本気で考えまして、3時間ぐらいずっと考えていました。自分の今までのこととか、自分の生まれ育った環境……。


私は結婚して31年目、子どもが3人おりまして、長男は29歳で東京で働いております。次男が27歳。これも鹿児島で働いております。最後にドーンと離れて、何を間違うたか女の子ができまして、これがまだ18才です。今年から大学1年生という娘であります。妻は私と一緒に仕事を手伝ってくれてます。


特別に何があったというわけではないんですけど、あえてこういうお話をさせていただけるということなので、自分の生まれ育ったこととかいろんなことを含めてまとめあげたのですが、たぶん、軽く聞いてもらって、途中で何を言うとんかなと思われるかもしれません。自慢話もあるやろうし、しょうもない話もあると思いますけど、ご容赦いただきたい、と、そういうふうに思います。

●<第2回:自己紹介>


最初に私の自己紹介から入ろうと思うのですが、私は昭和25年の5月10日生まれ。今現在53歳になりました。


私の家の仕事は、ここに書いていただきましたが、有限会社 氏田自動車工作所という会社で、私の父親が創業してくれました。


終戦の年の昭和20年12月に、自転車とかオートバイの修理を始めたそうです。父親が、私が生まれた昭和25年に法人登記をしたのが氏田自動車工作所という会社なんです。


今現在、54期目を迎えてやっております。もう1社、株式会社 ウイズ は販売会社です。現在、ウジタオートサロンと、言う屋号で大阪府下で4拠点、3つのショールームとサービス工場が1カ所でやらせてもらっております。


私がお話をするに至って、たぶん皆さんがご興味があるのは自分のお子さまの話、もしくは生徒さんの話かと思うのですが、僕はある意味、非常に変わった環境に育ちました。


父親は明治40年生まれ、母親は大正2年生まれで、どちらももう他界してこの世の中にはいません。そういう意味では僕は一番下の子どもなので非常に年寄りの親に育ちました。


今だから言えることですが、昔はとてもじゃないけど人前では言えなかった話ですけども、実は私の父親も母親も再婚同士でした。どちらも死に別れで、父親が子どもを2人連れてて、母親が子どもを2人連れてて、お互い再婚をしてできたのが私なのです。


もう亡くなったんですが、一番上の兄と僕は15歳違いますし、私のすぐ上の姉も6つ年が違うんです。親もあえてこの事は口に出さないんです。子ども心にこれは言ってはいけないことなんですよね。誰にもしゃべれない、兄弟にもしゃべれないし、友達になんか絶対言えないことなんです。 


ところが親戚とかがいろいろ言うわけです。「おまえだけが二人の子供だ」とか、「おまえは違う」とか、いろんなことを言うんです。それで、親も僕だけをかわいがるわけにいかないという環境の中で自分が居て、何か本当にへんな意味、心中は複雑でした。


今だから言えるんですけど、実は僕だけが種違い、畑違いでそれこそ兄2人、姉2人の5人兄弟の末っ子なんです。そういう環境なんで、非常に両親とも僕に気を遣ってくれたと思います。


この氏田自動車工作所の創業者で亡くなった父親というのは、氏田寅吉といいまして、私は耕吉なんです。 私の兄は洋吉というんです。 そして実は私の長男は伸吉、次男は裕吉、娘は吉子(キチコ)。


、、、これはうそですけどね(笑)、ちょっとこの辺で笑いをとっとかんと、緊張して……。すいません、本当は娘は朋子といいます。


何しろですね、父親は一切勉強しろとは言わないんです。職人さん気質で、車を直したり、修理をするということに対してすごいプライドを持った人でした。 小さい時から「男は手に職を付けないかん」とそういうふうに言うんですよ。 手に職さえ付けたら食うには困らへんと。 とりあえず自分の仕事がうちの父親にとっては最高なんですね。


その上、「おまえは特別や」とか、「みんなと一緒じゃない」とかいう表現をしょっちゅうするんですね。自分は何か訳が分らないけど、子供の頃からそういうふうに言われてきたら、心底そう思うんですね.


これが言う所の「アンカーリング」なんでしょうね。


この事は後程ゆっくりお話します。

●<第3回:仕事の意味>


僕が生まれた昭和25年、終戦後5年たったくらいですけれども、そこから昭和30年代に向って、いわゆる自動車のモータリゼーションが起こりつつある時ですけれども、非常に車はよく故障しました。


とにかくよく傷む。 僕が小さい時というのはまだ木をくべて走る自動車、木炭車なんていうのが有りました。 自動車の中は今だったらプラスチックや合成の内張なんですけども、実は当時はそれが木なんです。 で、「車大工さん」というのが居られてね、車の内張を大工さんが木を切ってベニヤ板で張るような、そんな時代だったんです。


今も会社は住吉区帝塚山のチンチン電車に沿って、小さな古い工場で当時と一緒の所なんですけど、そこがもともと父親の創業の地です。 そこの2階で僕は生まれ育っているわけです。 とにかく当時は自動車がよく故障しましてね、今日の皆さんはお若いからそういうことをご経験ないと思うんですけど、僕が免許を取った頃なんていうのは、道路端でエンコしてる車とかが一杯あるんですよ。 車が動かなくなってボンネットを開いて、とめてるとかいう車がたくさんあったわけです。


僕はそういう時代の修理工場の息子なんですね。 夜とか昼にかかわらず、車はしょっちゅうエンコするんですよ。 エンジンなんかキーを回したら繋るんじゃなくて、キーをオンにしておいて車の前でスターテイングハンドルを回して、エンジンをかけるような時代ですから、、、とにかく、よく故障するんですね。


故障したら、職人さんがみんな順番で出張に行くわけです。 私が学校から帰ってきて、晩になっても出張なんです。 とにかくよく車が壊れるんで、夜中の出張もよくありました。 夜になって私が家に居る時、電話がかかってくる。 夜何時にかかわらず、お客さんからの電話が入ったらうちの父親がパッと電話取って、車が壊れた、エンコっていうのを聞きつけるわけですね。


どこそこでどんな状態とか。 僕は工場の2階に住んでいましたので、聞いていてためらわずすぐに下りていって、まず父親が持っていきそうな道具箱を出してきて用意するんです。 小学生ぐらいですからもう連れていってほしくてたまらないんですね。 それで父親が出張の準備して下りてきて、「なんや、行くんか」、「うん、乗してって」言って、車に乗せてもらって、現場で車のエンコしたのを直しているのをずっと横で見てるんですね。


そこでいつも父親は車が直ったら、帰りの車の中ですごい自慢をするんですよ。


「直ったやろー、どんな偉い社長でも車はよう直せへん、壊れたらなあ、やっぱり俺が直さなあかんねん」と。 「ええやろー、こんなんやっぱり手に職付けとかなあかん」って言うわけですね。 それでその後で必ず言うんです。「あんだけ喜んでくれて、おまけにお金までくれんねんで」と。 「こんな仕事はないでー、ええやろー」言うて。もうこれをずーっと言うんですね。


小さい時からずーっと聞かされて訳ですよ。一緒にお風呂に入っても、そんな話をするわけですね。 とりあえずおやじはすごいとか、人のできへんことをやったらすごい人や。 また、直ったら相手を喜ばせれると。喜んだらほっといてもお金をくれはるとか、そんなことをずーっと聞いてきてるわけなんですね。


ここからはちょっとだけ自慢話ですけど、住吉区ではたぶんうちが1、2で古い修理工場です。阿倍野、住吉でも1、2やと思いますけど。特に父親はそういう意味では技術のほうでは自信があったと思うんですね。色々な人が修理の相談に来たり習いに来たりしていました。車を直すという自信も結構あったと思うんですよね。

●<第4回:心臓弁膜症>

父は事業力の旺盛な人で、いくつもいろんな仕事を展開してました。 修理工場をやりながらガソリンスタンドをやったり、塗装工場をやったり、出入りの部品屋さんが困ってきたら応援したり、取引先の運送屋さんがつぶれかけたらそこを引き受けたりしてました。 


私には兄が2人おりまして一番上の兄は、亡くなったんですけど、塗装関係に進みました。 二番目のほうは最初、ガソリンスタンドをやるということだったんですけど、本業の自動車修理の会社を継ぎました。私は年も一番離れてるし、どの仕事をやるのかなあ?ぐらいに自分で思ってました。


ところが病気をして事情が変わってくるんですね。 私が小学校4年生の時に水中自転車とか言って、水の中を自転車をこいで走っていく「遊び」が流行ってました。 それは結構はやりでして、私は水中自転車で乗るのが一番うまいんですよ。 


ひっくり返らないように水の中を走って行くんですね。『その時』は足をけがしてるのに近所の池で水中自転車を楽しんでました。 左足だったか、怪我してるのにやってて、足からばい菌が入りまして、ものすごい発熱が続いたんです。 


1週間か10日くらいして、熱があんまりひどかったので小児リウマチだとわかりました。その小児リウマチで熱が下らず、高熱がずっと続いたもんですから、心臓にきちゃったんですね。 今はちょっと違う病名らしいんですけど、当時は心臓弁膜症と言われてました。 

それからはいきなり「運動は一切だめで、体育は見学のみ」学校へ行くのも送り迎えを親や姉がしてくれた時期がありました。 それから、なんか急に自分の世界が変わるんですよね。 うちの母親もその事をすごく気にして、「無理せんでいい」って、ものすごく甘やかしてくれるようになりました。 ところが、自分はそういう父親にそういう育て方をされてたものですから、食い違ってしかたがないんですね。


●<第5回:小学生のアルバイト>

その病気がちょっと落ち着いて、1年以上たった小学校5年生の時の夏休みに、初めて私にも工場での修理のアルバイトの許可が出ました。 それはもう、毎日めっちゃくちゃ楽しくてしかたがなかったです。


朝は親と一緒に1階へ下りて手伝っていました。 当時は職人さんたちが7~8人くらいかな、全員で10人ぐらいで工場をやってました。職人さん達が私に「何々取って来い」、で道具を取ってきて仕事を手伝うんです。


それと、毎朝毎晩、車の引き取りや納車に全員で一斉に行くんです。 小さい目のバスに皆が乘りこんで、いろいろな会社へ行って引きあげてきて修理して、またその日できあがったものを晩になったら納めに行くんです。 ところがたくさん得意先があるから、お客さんの場所っていうのをみんながよく分かってないわけなんですね。 


そこで私は車に乗せて欲しいんで、子どもながらに、手帳を手に入れて、1回行った場所は必ず自分で地図を書いておくんです。職人さんよりも自分のほうがお客さんの場所は書いて有るんで分かってるんです。 


朝晩の打ち合わせで「どこそこの何々さんへ取りに行くけど、誰か分かるかあ」と言った時に、私は「はい!」ですね。「へえ、耕ちゃん分かんの、ほな、連れてったるわ」ということになって、必ず連れて行ってくれる。とにかくもう、連れて行ってほしくてたまらないので考えつくんですね。 


納車引取りだけでなく、出張修理でも横で見てても、なんか分からないんだけど、一生懸命見てたんですね。 楽しかったです。 父親は自分の仕事に子供の私がそういう興味を持つことを喜んでくれたんですが、病気のこともあるので、母親がものすごい気にしだしました。 


もうこれ以上仕事のアルバイトをさせるのはダメと、すごくコントロールされました。 それが小学校の5年生の時なんです。 なんかそれでも親が、「ああ、おまえは違うなあ」とか「さすがおまえは俺の息子や、やっぱりできるな」とか言ってくれるんです。 で、自分ながら、俺は違うんやとか、俺はできるんやとか、勝手にそういうことを思ってました。 


自信過剰と言うか、これもやっぱりアンカリングだったんですね。


●<第6回:中学時代の反抗期>

しかしその後はお決まりの反抗期です。 中学生になってからは、父親に逆らったり、けんかしたり、先生に逆らったりしてました。


私たちの時代は団塊の世代のちょうど最後の方なんです。 大阪市立の住吉中学校を出てるんですが、当時の中学校の1学年は750人もいました。 住吉中学はなかなかの有名校で、その成績上位の100人のうち半分ぐらいは越境入学なんですね。 


750人居る上に、6時間授業がビッチリあって、それ終わってから補講がまだ2時間あるんですよ。 だから中学の3年になったら8時間授業なんですね。 2年まではいいんですけどね、3年になったら、こちらの教頭先生みたいには優しくない、当時の教頭先生が中学3年生を集めていきなり、「睡眠時間は5時間から6時間。それ以上寝てはいけない。 いくら寝ても無駄や」とか言ってましたね。


とにかく「勉強しなさい」とか、言うのですよ。学校でホームルームの授業は「自習時間にします」とか言って予習とか復習の時間になってました。 ほんまにすごい学校だったんですよ。  


僕は親から勉強しろなんて言われたこともないし、面白く中学1、2年まで来てましたのに、いきなり3年になって何んで?と言う感じでした。 3年の担任の保田信冶先生は当時はまだ新任で、「僕は初めて3年生を持つけど、君らももう3年生になったから、とりあえずホームルームは無しにする。 今年1年間ホームルームは無しで、その時間は予習時間、自由時間にして、質問は全部自分が受けます。」と言い出されたんです。

いろいろ納得できない事なので、まず一番にホームルームを戻してもらう事にしました。 私はいきなり先生に、「それはちょっとおかしいんじゃないですか、それは教育の何とか(?)に合ってない」とか適当なことを言ってたんでしょうね、きっと。 そしたら、当然生徒は皆で全員賛成しますよね。「そや、そや、そんなあかん、あかん。もうそら、ホームルームはホームルームとしてやるべきや。先生、やっぱり民主主義は多数決ですよ」とか言って先生に反対するんです。 


変なところで私はそういうことをやるんですね。そんなことをして来たんで、先生からもたぶん恨みをかってたと思うんです。 病弱だった割りには体は大きくて、声も大きく、特徴が有ったので、よく目立ちました。 本当に学生時代はいろいろなことがありました。

●<第7回:私の父親>

さっき言ってた6時間授業の後の2時間は補講で、お金を払うんのです。 お金を払って全員が授業を受けるんです。 ただ、たまには先生がいない時があるんです。 


その日は先生がいないのが分かってて、友達を2人誘って補講をサボったんです。 「ばれへん」と思ってね。 住吉中学校を出て、駅のそばに 「帝塚山古墳」 と言うのがあります。古墳は史跡になっていて立ち入り禁止なんです。 


ただそこには誰もいないので、その塀を乗り越えて入って遊べます。拾った木やダンボールをそりみたいにして乘って滑走路みたいに上から滑って遊びました。 2時間ほど遊んで家に帰ったらちょうど「ばれへん」と思って、ずーっと遊んでて、ちょうどみんなが補講から帰るころよりちょっと遅めに古墳を出たんです。 調子にのってたんでしょうね、 


3人で帰ろうとして、駅の踏切が下りてるのに渡った所を駅に居た保田先生に見つかりました。 「わ、やばい」と思って隠れて、絶対「ばれてへん」はずだったんです。 先生も全然知らないようだし、怒るそぶりもなかったんでラッキーやったんです。 


ところが次の日の朝、学校に行ったら、いきなり3人が職員室に呼び出しで、「君ら3人、心に疾しいところあるやろう」と言われました。 ーー「ばれてたん」です。-- 「とりあえず今は3年生の大事な時期やから、全員お父さんに来てもらえ。 お母さんではあかん。 お父さんに来てもろうてくれ。それがあかんかったら、私が行ってもいい」と言われましてね……。


どう言おうかなあ、うちの親父なんか、勉強しろなんて言う人でないし、どないしようかなあと思って、おそるおそる親父に言いました。

「なんか学校へ来てくれって。お父さんしかあかん言うてんねん」と言ったら、即、「分かった」でした。

次の日に私の父親が学校に行くんですけど、いつも作業着しか着ていない人だけど、わりとおしゃれで、遊びに行く時だけはおしゃれな服を着るんですよ。 放課後隠れて覗いて、どんな格好して来るのかなと思ってたら、、、もう忘れもしませんね。 ちょっと長いめのコートを着てたと思います。 


何んでコートを着てくんのかな?です。 そんな格好してさっそうと職員室に入っていきました。  「うわあー、またうちのおやじ、絶対何かやりかしよるなあ?」えらいこっちゃなあと思ってました。 ところが、あまり時間もかからない内に、すーっと出て帰って行くんですよね。 


すると、学内放送がかかって先生から「氏田君、職員室へ来なさい」と呼び出しです。 職員室へ行くと、「君のお父さんと話した。家帰って聞いたらいいけど、まあ、そういうことやから、お父さんによう聞いとけ」とか言われました。 


それ以上は何にも言わないしね、何でかなあと思いながらおそるおそる家へ帰りました。夜、仕事終わって上がって来たおやじが、

「ちょっとこっち来てみい、おまえ、学校で補講出んと遊んでたりしたらしいなあ!」。

「ごめん」

「おまえ、勉強好きちゃうんか」

「うん、あんまり好きちゃうねん」

「ほんならおまえ、もう働け」

「え?」、、、、、

「おまえ、もう中学で学校やめて働いたらええ。勉強も好きでないやろうし、たいした成績でもないから、公立か私立かスレスレらしいから、金もかかるし。お兄ちゃんたちは勉強したいと言ってたから私立でも金出して行かしたんや。 けどおまえは、勉強もいやらしいから、もう働け。 先生にそない言うといたから」

「え?」、、、、、て。今でもその時のことを思い出すんです。


「うわあ、俺もうあかんわ。中学出たらもう働かなあかんわ」と思って、もう涙出そうでね。 私のおやじは酒も飲まない堅物で、明治40年生まれでしょう。 絶対言うことは聞いてくれませんからね。 うちの母親なんかでも、絶対口答えするような人じゃないんで、もうどないしようかなあ思った事をね。


それで次の日、先生に相談に行ったんです。

「先生、実は僕、働け言われてるんですわ。」

「おまえのお父さんは、もう、ほんま、たまらんなあ。おまえ、どないすんねん?」

「どないしたらよろしやろ」

「これやったら余程でない限り、高校へは行かれへんのちゃうかぁ」


当時のことですから、中学しか行かない人も何人もおりましたからね。 だけど、私はね、当時の成績が750人中400番前後。 良い時で300番ぐらい。 当時はできる生徒は基本的に公立高校に行くんですよ。それでもうちょっとだと私立、もしくは上のついた私立に行くような時代だったんですが私も成績では行けない事はないんです。


先生は「まあ、とりあえず成績上げなあかんわなあ」と言ってました。 それで僕は母親に言ってオヤジに頼んでもらう事にしました。「もう一生懸命勉強する言うてるし、なんとか高校だけ行かせたってください。上の兄弟と同じように高校へ行かしてやってください。」、


母親が頼んでくれて、僕も横でお願いしますと頼みこみました。 そこで何とか落ち着いたんですけれど、でもあれは何かあったら、本当にそのまま働いてたかもしれません。 そこで、「こらあかんなあ」と思うて、滅茶苦茶に勉強しました。 


たまたま昔から、基礎の要る算数と英語だけは好きだったんで、助かりました。 ほかが全然ダメだったんですが、記憶だけなんで、いろいろやりました。 寝るところの枕元に化学方程式を書いて貼っとくんですよ。 夜寝る時に必ず天井を見ますよね。 毎日化学方程式を見て寝てると覚えてしまう。 


それとか、テープレコーダみたいなでっかいリールのが家にあったんですよ。 それで英語の文章とかを吹き込んどいて、寝てるときにもそれを聞いたりしてると覚えれたんです。 色々と自分で工夫してると、ポンポンと成績が上がりだして、すぐ200番くらいまできて、100番くらいまできました。


なんかその辺で自分も「こら行ける!」といつもの自信過剰になるんですね。 その時の想い出の担任が保田信冶先生とおっしゃるんです。 高校を出てからこの仕事についた頃、連絡を頂きました。 「車、修理するか?」って、、、出来の悪かった生徒ほどいつまでの気になられるんでしょうね。


今、堺の東雲東町にお住まいで、実は今でもわが社のお得意様でお付き合いがあるんです。先般、私が幹事で先生の「定年慰労会」を盛大にしました。

●<第8回:自由闊達な阪南高校時代>

その時のことでも両親は全然勉強しろとは言いませんでした。 しかし自分としては、とりあえずはそこそこの学校に行こうと思って、絶対通る、かつその当時一番自由であるという阪南高校に行きました。 今は学校も結構いろいろ有るようですが、そこの8期生で入学しました。 


肝心の成績なんですが、入った時は学年で4番だったそうです。 高校に行く時に中学の先生に、「おまえ、高校をなめたらあかんで。 ちょっと勉強して成績が上がるのは中学生まで。 なんぼ英語や数学得意や言うても高校になったら基本的にやれへんかったら、あかんで」と、やんちゃやったんで、3人もの先生に言われましたね。


もう調子に乗ってたのが分かってるからでしょうね。 でも、「おれは出来んねん。やっぱ、おれはやったら出来る」と思い続けてました。 そしたらいきなり1学期の終わりに、クラスでドベから4番目になりまして、中学校の方の保田先生からは呼び出しきましたね。 


「おまえ、なんで勉強せえへんねん」て。 優良な住吉中学校に比べたら、阪南高校はある意味、非常に荒れた高校でした。 と、言うより、それが、当時の普通の学校だったんですね。 休み時間になったらみんなが「行こうかあ」と言って、奥のロッカーで、いきなりたばこパアーッとを吸い始めます。 びっくりしましてね。 住吉中学校ではそんなのは誰もおりませんでしたから、「うわあー、なんちゅう高校へ入ってもうたやろ」と思いました。 


それで皆はたばこを吸って、ロッカーの奥へ吸殻を放り込むんです。 そしたら1度、ロッカーから煙が出てきましてね、その時の先生にみんなでえらい怒られました。 「誰だ、こんな所でたばこ吸うのは。何を考えてるんだ」とか言われました。 何か、そういう場面になると私はだめなんですね。 「先生、何んでたばこ吸うたらあきまへんねん。 先生、吸うてますやん。大人が吸うてええんで、なんで子供はあきまへんの。そんなんおかしい、納得でけへん。」とか言ってしまうんです。 


もうそうなると、前後の見境なく、そこでくってかかるんですよ。 すると、先生が「もうええ。おまえ、あとで職員室来い」。またやってしまいました、、、、。それで先生が「おまえがたばこを吸うて無いのは分かっとる。 おまえは性格上そうやろう。 それを何でおまえが前面になってやるのや。 吸うてた連中はみんなそやそやて言い出すやろ。それがあかんのや」と言われます。


変な性格でした。うちの高校は違う意味では非常に活発な高校でした。何しろ校長先生が朝礼で話し出すと、上級生は校長先生に向ってヤジを飛ばすぐらいです。 「先生それは何か違う」とか、話に対していろいろと、ヤジを飛ばします。 国会みたいなものです。 すごいんですよ。 先生と生徒が真剣に話し合うんです。 そんな事から、うちの高校からは大阪市立大学とか、あの辺のレベルの大学校に行った連中で、当時の流行の全共闘や全学連とかの連中も居ました。


そんな先輩がたくさん居ましたね。 だからか、実は私の高校3年の時、卒業式は、当日学校が彼らに封鎖で出来ませんでした。 高校での卒業式粉砕の全国第一号です。 東京大学の入試はなかった年です。 だから僕は行けなかった(笑)。、、、、、それはないか。


(笑)でも、ここからが暗転した私の話です。 高校3年の夏休みに私の父親が亡くなっちゃうんですよ。昭和43年の8月10日です。 春休みぐらいから調子が悪くなってきて、最後、胃ガンで8月に亡くなってしまいます。 今までは超ワンマンの父親でしたし、全て、何でもできる人でした。先ほども言いましたけど、仕事での修理のこと、会社経営のこと、そして家族の統制、いわゆる付き合い、すべてベストなぐらい超ワンマンなおやじでしたから、、、、、。


本当にそれで私自身の人生がガラッと変わるんですね。それが高校3年の夏休みでした。


●<第9回:社会人>

私には上に兄がおりますから、心臓病の事も有って体もちょっと弱かったし、自分は普通に大学行って就職しようと思ってたんです。 でもこれでちょっと段取りが狂いました。


そこで2部の大学に行くことにさせてもらって、関西大学の社会学部社会学科(新聞学科)に入りました。私は中学生時代、新聞部だったんです。 そんなマスコミの世界が好きだったし、体の事もあって行きたかったんです。


親父が死んだあと、会社の跡継いだのがすぐ上の次男坊でした。 私は高校を出てからは会社へ手伝いに入って、夜、学校へ行かせてもらってるという状況だったんです。 余談ですけど、当時、月給が2万4,000円でした。 今でも覚えてますが、保険料を引いたら2万2,000円何がしなんです。


自分で車を買いたくて、そこから毎月2万円ずつ貯めてました。 その何千円かで1ヶ月やるんです。 車が欲しくててたまらなかったんで、絶対に遊びに行かないように、お金を使わないようにしました。 本当にケチに徹してました。


20万円貯まったところで念願の自分の車を買いました。 ところで仕事の方は不思議なもので、やっぱりそれだけやってきた、おやじさんが死ぬと、一気にだめになりますね。 あれはもう、びっくりしますね。まず、いいお客さんが来なくなる。 仕事でミスが出る。 トラブルが起きると解決できない。 お金のやりくりがつけられない。 そんな連続でした。 


兄も9つ上で、私が18才の時に27才ですから、いきなり「社長」と、いうことで、本当に苦労してました。おやじからは修理の事しか習ってなかったし、全ておやじがやってましたから、兄貴も困ってました。 先ほども言いましたように、勉強しろなんて言われてませんでしたから、経営は二人ともお手上げでした。 そろばん学校もすぐに止めてましたから、まず私はそろばんが置けない。 当時は小さな電卓なんて出て無かったです。 お金を計算しようと思ってそろばんを置いても合わないんです。 


手が大きいのですぐ引っかけて、ご破算で、わからなくなります。日本橋に、五階百貨店って言う中古品屋か、が有りました.。 知ってられますか?電気屋さんの街にね、中古の電気製品ばっかり売ってるところが有るんです。 仕方ないから、そこでレジで使ってるような「レジスター」って言う、数字を入れて「バーン」と押したら、ガチャガチャと合計が出てくる、のを買ってきましてね。 それをもって歩いてて、配線をコンセントに差し込んで、計算してしてました。 そうしないと、私は計算出来ませんでした。 そろばん学校さえ辞めてなかったら、と情けない限りです。


だけど、兄貴は仕事できるが私は何もできません。 事務もしないと、だめでしたからね。 その上、大学へ行かしてもらわないといけないのでとにかくやってました。 もう、とんでもない毎日でした。 ところが、そうこうしているうちに、会社はお金が詰まってくるんですね。


兄貴は自分が銀行へお金を借りに行ったり謝りに行ったりするのがいやだから、私に行ってこいと言うんです。 印鑑も全部渡してくれるんです。 でも、そんなの、社会人1年の18才には無理ですよね。 だけど、仕方が無いんで社長の兄貴のふりして行くんです。 相手は結構、分からないんですね。 毎月手形を書き換えに行かないといけないんです。


商売してる方は分かると思うんですが、これが大変なんですよ。「お宅は、いつ元金を返すんですか?」って、銀行で言われるんですよ。「すみません、とりあえず金利だけで」とか、こう教えられてるんで言うわけですけど、「手形の裏にハンを押せ」とか言われるんです。兄貴は信用して18才の私に印鑑を全部預けてますからね。 で、行って全然知識の無い私が手形や小切手を書くわけです。 普通は簿記を勉強してるか、事務を習ってないとわかりません。 小切手があってね、その小切手のところに、¥マークを入れて、金額を書く欄があるんです。 銀行でここへ数字を書けって言われるんです。 


例えば135000円だったら、そこへまず「¥」って書いて算用数字で「135000ー」って書いたら良いと思うんです。 ところが、銀行の人が「小切手にこんな書き方はないでしょ。 漢字で書きなさい」と言うんです。 漢字で書くって言ったら、皆さん分かります? そこでまず、「金」って書く。 「¥」じゃないんです。


そして、135000円だから、十三(ジュウサン)万(まん)、五千円、最後に也を付けるは何故か知ってました。 「金十三万五千円也」です。 そしたら銀行が「これはだめでしょう!」ですわ。「何でですねん!」すると、「もうええわ!」ですよ。 今度は3枚目の小切手帳を持って行って、後ろで「ガチャ」ってチェックライターで打って来るんです。 「それやったらおまえ、最初から打て!」と思いましたね。 この小切手帳ね、紙代を取るんですよ。 それも、きっちり3枚分ね。


悔しくて家へ帰って母親に言ったら、「あんた、学校はそんなつもりで出てへんもんなあ」って言われて、新聞のチラシの裏が真っ白けの分をいつもメモに置いてあるので、それを出してきてね。 「1」 は「壱」、こう書く。 次、「2」は「弐」って書く。 「3」は「参」。 こうやってね、上の行に「壱」から「拾」までずっと書いてくれましてね。


で、この上に書いてくれた字の下に真似て書いて、「練習しい」ってね。 今でもその時のことが絶対忘れられへんのは、大正2年生まれの母親は尋常小学校しか出てないんです。 その学校へ行って無い人に習った事なんです。 私は今でも小切手帳をはずして持っていって、どこでも数字は書けます。 それを書くたんびに、自分の母親を思い出すんです。 「ああ、おふくろに習ったなあ」って。 今、私はそれをよく自分の社員の人たちに教えます。 「昔なあ、こんな事が有って、これはおふくろに習うたんや!」って。そんな思い出があります。

●<第10回:十二指腸潰瘍>

実をいうと、その会社は結局2年でやっていけなくなりました。

昭和43年に父親が亡くなって、44年から私も高校を卒業して入ったんですけど、結局2年間でした。 資金繰りも厳しくなってきてました。

『トイチ』、て分かります?十日で一割の金利が付く事です。 最後のころ、一番しんどかった頃にね、『トイチ』に近いようなお金にも手を出しました。 『ナニワ金融道』、ちょっと、そこまでの人じゃないけど、10日たったら1割ほど金利が付くような、高利のお金です。 

そして、それもね、今考えたらすごい話ですけど、先に金利を引かれるんです。 例えば10万円貸してほしいって言います。 1ヶ月間10万円貸してほしいと、言ったら、いきなり最初から7万円しか貸してくれへんのです。 

要するに10日で1割ずつやから、30日で3割。 だから7万円しか貸してくれないんです。 だけど10万円の借用書を書かせるんです。 それでも結局、もう銀行もダメ、自分でもどうしようもないから、もうしかたないんです。

そのかわり、印鑑だけ持っていって、サインと印鑑を押すだけ、担保も保証人も無しです。 母親に言っても、「もうしゃあないやん、土地が売れるまでのつなぎの資金や」とか言うんでね、本当にすごかったですね。

その当時、今本社の有る帝塚山の場所と違う所に100坪の工場とマンションが建ってる南住吉工場が有りました。 その建築費も銀行の借入金でやってましたので、それの返済もできなくなってきて、昭和46年、いったんそこの工場を閉めることにしました。

「これ以上やると他人様に迷惑をかけるから」と周りを説得してその工場を売却しました。 兄貴は家族も有るし、他へ働きに行く事にして、その売却したお金で銀行に返済したんです。 当時はいわゆる出入り業者さんとか仕入れ先もたくさんありましたから、工場が売れたら仕入のお金、(いわゆる買掛金)は全部返済するからしばらく待って欲しい、と、その方々に1件1件お願いに行きました。

皆さんは、確かに、「先代の社長にはお世話になった。」と言ってくれてね、やっぱりすごかったですね。人の情というか……。やっぱりものすごいですね。

でもそれがなかなか工場が売れないと許してくれなくなってきました。いろんなことも言われたし、いろんな目にも遭つて、もうほんとに、たまらんかったです。

それで、私ね20才で十二指腸潰瘍になりましたから。胃が痛くなってきてね。工場の売却、返済の決着が終わったくらいにちょうどキリキリ胃が痛くなりだして、なんかお腹がおかしくなって下痢になって、病院に行ったら十二指腸潰瘍だって言われました。 

当時は『十二指腸潰瘍』って、1日1本ずつ毎日注射を打つんです。 10本打ったらバリウム飲んでレントゲン。 それで、まだあかんと、また10本打つ。 また、レントゲン。 つごう、30本打ちました。 30本打ってやっと潰瘍が治まりました。 その時にお世話になった阪南町の小川先生に、「君な、19 や20で十二指腸潰瘍になる奴はおらんぞ」と言われました。

さらに先生は、「君、こんな病気になるなんて大変な事やで、。一生働かな いかんのやから、まずこの病気が治ったのを機会にお酒を飲めるようになりなさい」と言われました。

実は我が家ではおやじもおふくろも含めて兄弟、誰ひとりお酒は飲みません。ところがそんな事情で「お酒を飲んでストレスを発散したら?」って言われて私は飲み出す様になりました。今も酒は弱いですけど大好きです。

●<第11回:卒業即結婚>

ほんとうに、そういう時代がありましてね、そんな事で、今はもうお酒は大好きです。 

お酒飲む事もですけど、他にもちょっと『ませたとこ』がありまして、実は結婚を早くにするんです。 関西大学の4年次の試験が終わって卒業式前の3月3日に結婚して、海外旅行に行きました。

なんとね、すごいでしょう。新婚旅行が、ハワイに行けるかどうかと言う時代に、私も「海外に行こう!」って、四国一周。 それも3日間で。

大学最後の4年次の時は受講してた科目が、全部通らないと卒業できなかったんです。 全部が、最低、優・良・可の可、つまり100%必要だったんです。 だから、自分はもう実は、無理だと思って学校を辞めようと思ってました。

それで旅行から帰ってきて、おそるおそる学校へ行きました。それが何か知らないんですが、私の運の強いところいうか、すれすれで、卒業できてたんです。 試験強いと言うか、勝負強いと言うか、最後は何とかしてしまうんです。

ところが、途中1回だけ失敗がありました。 夜学というのはいろいろな人が居られます。 そんな中で高校からずっと夜学へ行っていて、当時でもう30才くらいのすごく良くできる女の人が居られました。 その人に「もう頼むわ、俺卒業できへんかったらどうしようもないねん。」って頼んだんです。

いわゆるカンニングです。 で、後ろに座らせてもらって背中をツンツンと、たたくわけです。 すると、スッと横にずらしてくれるから私は後ろから見ながら書き写すんです。 ところが写してる時に、誰かがポンポンって私の肩をたたくんですよ。

「ドキッ!」その時、チェックする事務所の職員さんが来て用紙を取りあげられました。 もうあかん、これは絶体絶命と、思いましたね。 でも、もう私も結婚も決まってたし、これで失敗したら卒業できませんからね。 

そこで、事務所へ謝りに行きました。「われわれは事務員だから関係ないですよ。 ただ監督してて怪しいのはピックアップさせてもらっただけです。 君の解答用紙は別にして、先生に渡すだけです。」と言われました。 「分かりました、すみませんでした。 できたら先生の住所だけでも教えてもらえませんか?」ってお願いしたら、、、すると、メモに書いて渡してくれました。

即、翌日先生のお宅にお酒持って行きました。「本当にすみませんでした。僕も苦学生だし、、いろんな事情があって勉強する時間が足りませんでした。何とかよろしくお願いします。」  

先生も、もう何にも言いません。もう何にも言わずにとりあえずお酒だけを受け取ってくれました。(苦笑)
だけどあの頃の先生は、面白いですね。事務の人でも、『古き良き時代』でしたね。

入学した時、社会学部社会学科(新聞学科)いうのが同期で120~130人居たんですが、卒業する時には、正味4年で卒業したのは十何人ですよ。 20人いないんですよ。 私を入れてですよ。すごいでしょ、この話。さて私の長い話はこの辺にして、そろそろ本題に入ります。


●<第12回:自分でこだわる人生>

さて、私はある意味、仕事が好きでしたから、その後は会社の仕事を引継ぎました。 私のおやじの自慢話はもう一つ有りましてね、「ワシは人様から『後ろ指』をささせれるようなやり方だけはしてへん。安心して生きていけ」って、いつも言われてました。

私にはその時は意味が全然分からなかった。 「何をまた言うとるんかなって?。」ところが自動車のこの世界に入ったら、確かに「おまえ、氏田の息子か」とか、「氏田自動車なら」「氏田さんなら大丈夫」っていう場面が何回も出てくるんですよ。

実際お金はなかったですが、これはお金では買えない物、『信用』と言う『無形の財産』を残してくれてたんです。 ありがたい事でした。 

しかし何しろ先立つお金は無いんですね。私たち兄弟5人全員、おやじが死んだ時に、ひとり50万円ずつの生命保険金をもらいました。 先ほども言いましたが、初任給24、000円の頃です。ちょうどその時に、うちの別会社の運送屋の番頭さんから、「耕ちゃん、あのな、親から貰ろうた金はおまえの甲斐性ちゃうんや。 できたらその金に手を付けへんような人生送りや!」と教えられました。

だから私はおやじが死んだ時に貰ったお金50万円をすぐに住吉区役所の真向かいに有った大阪相互銀行に預けたんです。 これは、私のおやじが『私に』と、残してくれた『お金』なんです。 これに手を付けるのは私の人生終わりの時、最後の時しかないと無いと心に決めました。

この貰ったお金には一生手を付けないでおこうと思って、ずーっと置いてました。 預金したまま、ずーっと置きっぱなしにしてたら、先にその銀行がつぶれましてね。 支店も閉鎖になるというので、仕方なく古い通帳を持って解約に行ってきました。 昭和44年に預けたんです。そこから銀行の名前は何度か変わりました。

最初はなにわ銀行、それから近畿大阪銀行に合併で支店がなくなる事になりました。出金に行きましたが普通預金だったんで、35年ほど預けてましたがちっとも増えてませんでした。 金利は付いてない、貨幣価値は下がってる。

しかし私も、『ばか』やってますよね。今はもうそこに預けるのを止めて、わずかの金利も入れて一緒に置いてます。 これは私のおやじが私のために残してくれた『現金』と今後も記念にしていくつもりです。 それ以外の事は自分が自分でやってきた事だし、自分が仕事して稼いだお金で展開するのは自分の甲斐性だと思ってます。

この話は自分の親しい人によくします。私の一つの夢、ロマン、と言うより、『こだわり』がそこにあるんですね。 その銀行がなくなったのだけは非常に残念なんですけど。

●<第13回:物事は見方、考え方次第>

あと私は18才から働き出して、小銭をチマチマ貯めて、37才の時に初めて土地を買いました。 親が頑張って『住吉で1、2や』と言うほど古い自動車屋だったのに、『息子の時代になって、工場売ってしまった。』こんな事を言われて恥かいてるのが 『発奮の元』 でした。

ぜひ、自分の力でそういうスペース、土地がほしかったんです。 初めて融資を受ける時、大阪銀行王寺支店の当時の勝山直人支店長に20年かかってチマチマと貯めたお金の預金通帳を見せて、「今までこんだけ貯めてきました」と言ってお願いしました。

「よう頑張ってきたね。」って言ってもらったのはつい先日ように覚えています。 それで初めて借金をして土地を買いました。 それが37才の時で、ちょうど昭和62年(1987年)でした。

その後、土地のバブル期が来て、評価が上がった時にそれを担保に又拠点用地を買って、それを担保にまた買って、平成元年に2拠点、平成2年にもう1拠点を展開しました。 

そしたら、いきなりドーンと、『バブル崩壊』になりました。『平成バブル』について話させていただくと、『バブル』だった、と言うけれど、地位も名誉も金もない私が、自分で企業を展開させるためには、バブルっていう時期は最高だった訳です。

銀行も黙ってお金を貸してくれたんです。 私は何も全然むちゃは言ってませんよ。 ただ、事業用地で『土地ころがし』ではなくってもバブル崩壊後はもう本当に大変でした。

だけど、これも物事の見方を変えてみたらどうでしょうか? そんな時期だったから、私のような者にでも融資をしてくれたんですよね。

こんなタイミングでなかったら、自分が夢見ていたような、『事業展開』は出来なかったと思っています。 

例えば、おやじが私の18才で死んだから不憫だと言って、友達の親が私のことを自分の子供のようにかわいがったり、いろいろ教えてくれたりしてくれました。 今でもそのご恩は忘れられません。

『受けた恩は石に刻め、掛けた情けは水に流せ』、大事な言葉です。

しかし18才で親と死に分かれたから私はしっかりできたかもしれません。実は、超ワンマンで何でも出来た父親が生きてたら、私はしっかりしてなかったと思います。 もしくは家から出ていってただろうと言うのが、私の母親の意見なんです。

「あんたはお父ちゃんとそっくりやで。 でも、お父ちゃんが生きてたら家にはおらんか、もしくは全然違う人生を歩んどったんちゃうか」って、よく言われました。

「ほんまに、何か、やること、なすことよく似てる」って言ってました。おやじは私が18才の時、確かに死んでこの世の中にはおりませんでしたが、おふくろは40才まで一緒に生きててくれました。

父親は私の母親の口を借りて、私に語りかけてくれるんです。
「お父ちゃんが生きてたらこうやで」とか、「お父さんはこんな考え方をしてたよ」って言われる訳です。

だから、40才くらいまでずっと指導を受けたように思うんですね。これは考え様では私にとってはよかったのかもしれません。

それと、さっき私は「関西大学の2部へ行きました」って言いましたでしょ。 何となく、苦学、苦労なんて思うでしょ。 あれは実は全く違うんです。 昼間の大学も受けたんですけど、落ちたんです。

関大の2部しか通らなかった。 だけどそれを、例えば私が関大の夜間、2部の学校へ行ったって言うだけで、みんな、「あ、すごい苦労しはったな」とか勝手に思うわけです。 いや、本当に、でしょう。だけど、実はちがうんです。

別に苦労じゃなくて、たまたま昼の大学に合格してたら、通ってたら行ってたかも分かりませんものね。何か、そういうふうにして起こった事や物事をちょっと切り替える。結婚を早くしたいから、何としてでも卒業しようと思うから、いろいろな手段も覚えました。 

時間を無理やり作って皆とも遊びもしました、、、おかげでその時の友達とは今も親友です。 

イエローハットの鍵山秀三郎さんに頂いた色紙には

「こうだったから   こうなった

こうだったのに   こうなれた

こうだったからこそ こうなれた」

って有りました。

●<第14回:男は中身>

私は、こう見えても外車の中古車屋なんです。すごいでしょう(?)、

なんとなく。私らの商売って、すごく聞こえが悪いでしょう。 娘にも言ってるんです。「ええか、おまえ、もし変な男にひっかかった時は『うちのお父ちゃん、外車の中古車やねん。怖いよ』って言いや!」

これも一種の差別言葉ですけど、、、私がたまたま休みの時に、娘が大学入るからって、うちの家内と一緒にバーゲンで買い物に行く事がありました。 

車に乗っていく時にうちの家内が「バーゲンやしお父さんもスーツ1着買うたら」って言うから、「俺はええよ、朋子のだけ買うたれや。」と言いました。 そしたら娘が「お父さん、いつもそんなん言うて、全然買えへんやん」って言います。

だから「朋子な、家中みんなで買い物してたら、どうなると思う?やっていかれへで、」。 「破産やで、そんなんで良いか?どないする? おまえ、結婚して相手の旦那がやな、買い物好きや、もっと買いたいとか言いだしたら、おまえが辛抱せなあかんねんで、わかったか?」って言ったら、「お父さん、もう今日は買わんといて」って(笑)。 

「そら、何やおまえは、、、、、!(笑)」 私は安上がりなんですよ。今日のスーツ、何時もね、この格好なんです。 朝起きたらすぐ仕事始まりますよ。 このままです。 そして、夜もずっとこのままです。

つまり、風呂に入って寝るまでこの状態なんです。 休みはあまり取りません。 何故か言うたら、おやじが明治生まれでしょ。 うちのおやじなんて、私の中学2年ぐらいまで休みなしで年中無休で働いていました。

「第1、第3、の日曜日を休みにするのや。 この先どうなっていくんやろ。 そんなんでやっていけるか?」って私らに言うわけです。 それで、おやじはみんなを休ませても自分で仕事するんです。

誰も手伝いませんから、子供の私が手伝うんです。 そういう親をずっと見てると、今の私の状態なんか全然苦になりません。

だから私は私服て、ほんとに少ないです。 あんまり服にも興味がないんです。 『外見やない、男は中身や』とか言うのがおやじの場合すごくありました。

だから私は休みの日に着る服って決まってるんです。  今、会社は年末年始しか休まないです。 あとはずっと無休なんです。 もちろん社員さんは交代休みですよ。 それで、正月には写真撮るでしょう。

私の正月の写真ね、どれ見ても何時のか分からないんです。 いつも休みの時は同じ服着てるから、、、毎年、冬に着る服、一緒なんです。 まあ、よろしいよね。 早くに結婚したし、おしゃれは要らないんです。

家内には「だまされた。」って言われてますけどね。 よく言いますよね、「苦労は買ってでもしろ!」って。「買わんでも、いくらでも落ちてます。」

だけどみんな、案外有っても拾わない。 嫌な物なんですよね。だけど、物事の見方を切り替えたら、その事でものすごく人生は面白くなるんじゃないですかね。

●<第15回:人生万事、塞翁(さいおう)が馬>

さて皆さんの中には『塞翁(さいおう)が馬』をご存じの方も多いかと思います。せっかく今日はネタで考えてきましたので話させて下さい。

ある時、お客さんに「おまえの人生もほんまに塞翁(さいおう)が馬やのう」とか言われました。 はあ、「そうですね」とか言って、笑ってるんですが、これも勉強してませんから、わかりません。

『塞翁(さいおう)が馬』?? 知りませんでした。 調べておかないと、絶対いけないと、思って、高校生になってた息子に聞きました。 「おい、塞翁(さいおう)が馬てなんや。」 「お父さん、何言うてんの。全然勉強してへんな」って言って、教科書からコピーをしてくれました。

いまだにその時のコピーを持ってます。 これが何年も前に子どもからコピーでもらったものです。 もうボロボロになってますので、今日はそれを拡大コピーしてきました。 読ませていただきます。

そもそも災難と幸運とは次から次へと代わる代わる生ずる物であるが、その変化は凡人には見えにくい物である。 昔、砦のそばの近いところで占いのうまい老人が居た。 ある時、その人が持っていた馬が理由もないのにいなくなって、隣りの国へ逃げて行ってしまった。

近所の人がこの事件を慰めて話をしに来た。 ところがその老人は「このことがどうして幸運とならないことがありましょうか」と答えた。 

数カ月たった時にその逃げた馬が、隣りの国から足の速い駿馬を引き連れて帰ってきた。 近所の人がまた来て「よかったですね、駿馬が増えて、素晴らしいですね」。 するとこの占いの老人は「これがどうして災難の原因とならないことがありましょうか」と言った。

その老人の家には名馬がたくさんそろってきた。 老人の子どもいうのは、好んで乗馬をする。 ところがその名馬にのっている時に、老人の子どもは馬から落ちてふとももの骨を折ってしまう。

そうすると、また近所の人がこの事件を「えらいことが起きましたな」と慰めに来た。 そこで老人いわく、「このことがどうして幸運とならないことがありましょうか」と言う。 

年程たった時、隣りの国から戦争で攻めてこられた。砦のそばの人たちはみんな戦争にかり出されて戦った。 若くして元気な人間は全員弓を引いて戦ったが、10人中9人までが死んでしまった。

ところがその老人の子どもだけは、片足が不自由なために戦争に行かずにすんで、2人とも無事に生き残ったと言う物語。 このように幸運が災難となる。 災難が幸運となる。 その具合の変化は理解することもできないし、変化の深さを予測することもできない。

幸運な時にいい気持になってはいけない。 災難だから、不幸だからと言って、いたずらに嘆く必要は一切ない。 そういうようなことを言ってるようです。 

人生万事、『塞翁(さいおう)が馬』世の中には幸せなことと不幸なことがありますね。 楽な事と辛い事がありますね。 嫌な事と楽しい事、本当にいろいろなこと有りますよね。

ところが普通の人間はみんな、良い方だけがほしいんです。 楽で、幸せで、たのしいことだけを望むんですよ。 ところがそうはいきませんね。 私はいつもこれを『抱き合わせ』と表現してます。 幸と不幸が、世の中には同じ数だけあるんですよ。

だから必ず幸せなことがほしい時は不幸なこともひっついて来るわけですよ。 ただ、これをどう受け取るか。 私は、それをどう受け止めるかいうことで大きく変わっていくという気がします。

自分の人生を歩んできた中で、この「おまえの人生『塞翁(さいおう)が馬』」という言葉を、ある先輩に言われて、一生の言葉にできました。 それが自分の人生観を変えたともいえます。 

今日はせっかくのチャンスなんでどうしても聞いてほしいと思いました。この話の続きをもうちょっとだけ、しゃべらせて下さい。

●<第16回:音楽嫌いはアンカリング>

私は、誰の前でも、どんな場面でも自分がしゃべることについては、今は(!)平気なんです。 しかしね、昔はすごく苦手だったんです。 驚き、でしょ?

実はある時に、誰もが人の前でしゃべるのが苦手だという事に気が付いたんです。 私は、いつも、喋る時には、ずっと足がガタガタと震えてたんです。 ところが、ある時、他のみんなも震えてるのに気が付いたんです。 上手にしゃべってた友達をよく見たら、その人も足が震えてたんです。

舞台の上でね。 それ見た時に、「みんな苦手なんや、俺だけちゃうねん」と思いましたね。 「僕しゃべるの苦手ですねん」って、それを先に言ったら、「スゥー」として落ち着けました. これを、私は『言うたもん(者)勝ち』って言ってます。

そのうち、『ガタガタって震えて、びびりながら(?)しゃべってる』のが快感になってくるんですよ。 分かります? 分からへん? これがね、快感になるんですよ。 例えば学校の先生方はみんな慣れてられる平気でしょうけど、われわれ素人がしゃべる時は最初すごく緊張してます。

何か冗談でも言って笑わせてみる? ところが、反応なし。 「どうしようかなあ、今日はちょっと失敗かなあ?」とか思いながらやるんですね。 実はその時に自分が自分自身に『アンカリング』されてしまうんです。 私は小さな紙切れの小道具、『 自己宣言 』 なる物を持ってます。

『 私は何々である 』 という断定言葉を書いてあるんです。 例えば、私はそういうスピーチのチャンスを与えられたら、皆さんを必ず満足させることができると自分で先に断定、信じてるんです。 「今日はよかったよ」って言って頂いてる場面を、先に想像してるんです。

そしたら、話す内容が変わってくるんです。 要するに、順番がどっちが先かなんです。「いけるかな、いけるかな、こんなん言うてどうかな?」じゃなくて、もう最後の場面だけ自分で先に想像して、「よかったやん、今日はなかなか面白かったよ!」って、いわれる場面を先に想像して、自分がしゃべりだしてるんです。 もう少し具体的に話すと、実は、私はカラオケが滅茶苦茶で駄目です。

いや、ほんまに!これは是非、先生方には聞いておいてほしいんです。本当にたまらない思い出話ですから。 これはつい最近分かったことですけど、なんで私がカラオケが駄目か?今を遡ること小学校の3~4年の時に、福島先生という音楽の先生がおられました。

小学校ではコーラスがあるでしょう、講堂に皆で並んで歌を歌うものです。 先生がピアノを弾きながら、皆で歌う、あれですよ!練習の時にね、先生が手をこうパーッと上げて指揮する前にね、「氏田君、君の声、大きいから、ちょっと1回歌わんといてくれる」(笑)。

そして私以外の皆が歌う。「OK、OK、氏田君、悪いけど、今度の発表会、あんた口だけ動かしてくれる」って。 これはないでしょう。そんな小学生相手に。 私はあれから音楽が大の苦手になりました。 ほんまに。 ほんまですよ。 私は子どもの時に病気をしたために、母親が途中からすごい過保護になりだしました。

父親も私をものすごく不憫に思ったようです。 いろいろな薬を飲ましてくれたり、いつもパッチ(股引)を履かせて温かくしたり、本当にいろいろなことをやってくれてました。 

ところが、うちの母親は口癖で、「一生のうちで使えるお金は決まってる。若いうちにぎょうさん使うたら、年いって貧乏になる」て言ってました。 それである日、母親に言ったんです。 「僕ね、こんなに薬ばかり飲んでてええんかな?そんなに薬ばかり飲んでて、年いって病気になって働かれへんようなった時に、薬も買うお金もなくなったら、生きていかれへんやん。お母ちゃん、もうやめてーや、」って!。

そしたらね、母親から「あんたは一生お金には困れへん子や」って言われました。 その上、父親にも「おまえは普通の人間とちゃう。おまえはやったらできるんや」そういうことを言われてたんですよ。 分かります? これがね、 『アンカリング 』って言う事らしいんです。

これをつい最近、シーズコンサルティングという会社の菅谷新吾先生から聞きました。 実は私は子どもの時にね、「おまえは一生お金に困れへん。」とアンカリングされてきてたんです。 実際は全然裕福じゃないですよ。 だけどね、『私は一生お金に困らない』。間違ったことをせずにきちっとやってたら、私は一生、お金に困る人間じゃないんです。 

私は『必ず何でもやりきれる男』なんです。それは父親が私に教えてくれた。分かります?  これがね、今の私の人生を支えてくれてるんです。う ちの家内は「これにだまされた」って言ってますけどね。 だけど、これなんです。

このアンカリングのキーポイントは、一番愛する人にされる事なんです。 それも気づかずにやってるんです。 自分の子どもを 『ばか』 にするのは簡単なんですね。

毎朝子どもを見て、「あほやな、おまえは。ばかやな」って母親が子どもに「ばかやな」って毎日言ってごらん。 必ずその子はアンカリングされてばかになっていくんです。 間違いないんです。 皆さん『うそ』と思うかもしれませんが、事実そうなんです。

私は母親からも父親からも、ばかやとかあほやと言われたことは絶対ないです。 私は自分の子どもにも言いません。

わりと皆さん、知らずに「あほやな」と頭たたいたり、「ばかやな」ってやるんですよ。あれが一番ひどい。「ばかや、あほや」と言われて、それも自分の一番愛するべき親からそういうことを言われたら、子どもなんてぜったいそうなってしまいますよ。 ここに音楽の先生居られたら、絶対へんな、へたな歌でも歌わせてやってくださいね。(笑)。

●<第17回:人は考えたとおりの人間になる>

何か話したい事はいっぱいあるんですが、、さっきの話の続きで考えると、私は、『人は考えたとおりの人間になる』と、いう言葉が、自分の座右の銘になります。

皆さん、こんな事、思われたこと有りません?「こうなると思ってた。」って言う事。  「こんな風になると思ってたわ」て、ありますよね。 あれはね、そうじゃなくて、実は自分の気持の中でこうなると思いこんでいるんです。

だからそうなっていくんです。 実はどっちが先かなんです。 思ってる方が先か、現象面が先か、、、もっと言うと、今のこの場面って想像したことあるでしょう。 そんな想像してた場面に、みなさん立ち会われる時があると思うんです。

だから、それを逆に使っていくんです。 自分の都合の良い方に想像、つまり考えておく!そちらから、入っていくんです。 店を広げたい、事業を拡大したい、とか苦労したい(?)とかいう話は、実は私の深層心理にあったんです。

本当の話です。 私は昔から店を広げたかった、事業欲があったんです。 おやじが一生懸命築いてくれたモノを、子どもの我々が失敗させて非常に申し訳なかった。 だから何が何でもおやじ以上のことをしたかったんです。

こういう事業展開をしたかったんですよ。 これが本当に私の心の中にあったんです。 結局、そのとおりになってるんです。

『人は考えたとおりの人間になる。』 犬や猫はずっと犬や猫なんです。 ところが人間はだんだん人間らしくなっていく。 これはイエローハットの創業者、鍵山秀三郎さんに言われた言葉です。

「氏田さん、人間はだんだん人間らしくなっていくんですよ。 それは自分の心の持ち方と進め方なんです。」とね。 それを教えてあげる。 子どもにも教えてあげる。 まず考えないといけない。

自分は一体どういう人間になりたいのか。 そして考えたら、それを明確にイメージしないといけないと思うんです。 明確にイメージしたら、それを書き物にする。書き物にしたら、それを毎日見ておく。 うちの会社には『実行宣言』っていうのが貼ってあるんです。もうこれをやり出して20年以上なるかと思うんですが、実行テーマと期日しかない用紙です。、、、、、、、以上実行宣言します。

これを書いてですね、自分の一番目のつく所に貼る。ただそれだけです。 ところが、間違いないです。人は皆、書く時に自分がやらないといけないことを考えるんです。 そして、それを書く。 それをいつも見ることによって、自分自身にフィードバックする。 私は昔『AIA』という研修を受けました。 

その中の言葉で、「われわれ各自の人生は、一生に一回しかない旅行に出かけるようなものです。」ってありました。 それも20年がかり、30年がかり、50年がかりのものです。 普通、旅行に行く時は行き先を決めるでしょう。

何で行くか決めますね。 どういう方法を使うかも決めますね。 だのに、我々はこの人生という1回限りの壮大な計画の中で何故それを持ってないのか、ということですよ。

「自分は何年か後にどんなふうになりたいか。」それを持たないと、行き先が分からないわけですよ。  だからそういうことを、明らかに自分に答えを出してやらなければいけない。

これは学校では教えてもらえないモノかもしれません。 しかし自分でやらないといけないことです。 松虫中学校の陸上の指導をしてる原田隆史先生も子どもにこんなことを書かせるらしいです。

『自分の人生の目標』と、陸上部なので、『スポーツの目標』を書かせるんだそうです。 自分の夢のような目標、最低限の目標、自分の一生の目標、50年後の自分の姿、30年後の自分の姿、10年後の自分の姿、5年後の自分の姿。ここから逆算していって、今日、今、何をするべきか?が分かってくるらしいです。

原田先生の生徒達はこれを20分で書くらしいです。 同じ事をしたら、私は一晩かかりました。 つまり、これが明確な人間と明確でない人間は、人生が大きく違うんです。

仕事でもまさにそうなんです。分かりにくいかもしれませんが、実際あるんです。何でも良い、『家族や友達と時間を過す』『おいしいものを食べる』 『お墓参りにいく』 『遺書を書く』 いろんな分野で書き物をすると色々な課題や問題が出てくる。

その研修、『AIA』のポールマイヤーはまず紙と鉛筆を取り出して、やりたいことを紙に書き出す、ことから始めるらしいんです。書き物をするというのは、本当に、『ツール』としてものすごく有用ですね。

『自分は必ず自分が思ってるようにしかなってきませんから。』

●<第18回:夢の具現化>

みなさん、何にも努力もしないで、考えてみなかったのに、とんでもないすごい学校に行ったとか、とんでもなくすばらしい人生を送ってるとか、そういう方はおられないと、思います。 

私はそういうことを考えた時、せっかく自分が与えられた人生の中で、みんなが持ってる夢を具現化していく事が大事だと思います。 

『夢の具現化』というのは、私が入っている異業種交流会、サンゆ倶楽部で教えていただきました。 サンゆ倶楽部 (  http://www.geocities.jp/sanyuculb/ ) というのは、夢、ゆとり、ユーモアの三つの『ゆ』と、太陽の『サン』をもじってます。

そこでは会ったらいつも握手をするんです。『メメントモーリ』とこういうふうに言うわけです。 これはラテン語の宗教用語です。 

『メメントモーリ』は「あなたは死ぬことを忘れてませんか。」と言う事だそうです。

ちょっときつい話ですが、何年かしたら、この中にいる人たちはほとんどこの世の中から必ずいなくなる。間違いなく、必ず年を取る。 親が友達が死んでいく。 私はたまたま早く、父親が亡くなりましたが、早いか遅いかですが、必ずそうなります。

こんな事をもし私が18才の時に気が付いてたら、もっとすごい人生を送ってたかも分からないですものね。 だから、この年になって我々人生の先を思うとね、出来るだけ早く知っておいて欲しい、また、子供達にも教えてあげて欲しいと、思うわけです。

●<第19回:人生二度なし>

私は寺田一清先生 という方のご縁で、森信三先生の「修身教授録」という本と出会いました。 これはすごい本です。 私どもの会社で拠点長の勉強会に使ってまして、ちょっとだけ読ませてください。

『人生二度なし』という言葉で有名な著者の森信三先生は、この「修身教授録」の中で『人身うけがたし』と、おっしゃってます。 「修身教授録」第1部 第2項 人間と生まれてわれわれ人間にとって人生の根本目標は、結局は人として生をこの世に受けたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にないと考えるからです。

そしてお互いに、真に生きがいがあり、生まれがいがある日々を送ること以外にはないと思うからです。

<中略>

しかしながら、翻って考えるに、そもそもわれわれのうち、果たして何人が自分は人間として生まれるのが当然だと言い得るような、特別な権利や資格を持っているものがあるでしょうか。 

もちろんわれわれは、この地上へ生まれ出る前に、人間として生まれることを希望し、あるいはそうした決意をして生まれてきたわけではありません。

いわんや、人間として生まれるに値するような努力や功績を積んだために、今日ここに人間として生命をうけ得たわけではありません。 

このようにわれわれがこの世に生を受けたのは、自分に努力などとは全然かかわりのない事柄であって、全く自己を越えた大いなる力に催されてのことであります。

否、それだけではないのです。われわれはこの世に生を受けた後といえども、そうとう永い間、自分が人間としてこの世へ生まれ出たことに対して、何ら気付くことなく過してきたのであります。

それどころかわれわれ人間は、厳密には何人も自分の生年月日も、その生誕の場所も知らないわけです。 こういうと諸君らは、定めし私のこれらの言葉を怪しまれることでしょう。 

しかしながら諸君が知っていると考えている自分の生年月日は、実はご両親から教えられ聞かせられた結果であって、われわれは直接に自分の生年月日や生誕の場所を知るものではないのです。

そればかりか、自分のおしりにおむつの付けられていたことさえ記憶してる人はないでしょう。 ということは、われわれ人間は、ひとり自己の生年月日や生まれた場所を知らないのみならず、おむつのとれる年ごろまでも、自分の存在については、ほとんど知るところがないのです。

それ故私は、このことをもって、常にわれわれ人間の根本的な無知の一つの事例と考えているのであります。

<中略>

私の考えでは、われわれ人間は自分がここに人間として生を受けたことに対して、多少なりとも感謝の念の起こらない間は、真に人生を生きるものと言い難いと思うのです。 それはちょうど、たとえ食券はもらったとしても、それと引き換えにパンのもらえることを知っていなければ食券も単なる一片の紙片と違わないでしょう。


<中略>試しに夕食のあとなどに、寄宿舎の庭へ出て、皆さんの周りを飛び回っている昆虫はしばらくはのぞくとしても、せめてその辺に見られる植物の数だけでもよいから数えてごらんなさい。 おそらく諸君らは、正確にはその数を数え得ないでしょう。

と言うのも、それは諸君らの幾十百倍あるかしれないからです。 なるほど大木のかずともなれば、それは少ないでしょう。 だがもし雑草のひとつひとつを数えるとしたら、全校庭の植物の総数はおそらく本校生徒の数を超えるかも知れません。

ところが、お互いにわれわれは、、それらの動植物のどのひとつにもならないで、ここに人間のひとりとして『生』を与えられたのであって、これに対してどこにその資格があるといえるでしょうか。

<中略>

現代の人々は、自分が人身を与えられたことに対して、深い感謝の念を持つ人は甚だ少ないようであります。 仏教には「人身うけがたし」というような言葉が昔から行われているのであります。

つまり昔の人は、自分が人間として生をこの世に受けたことに対して、衷心から感謝したのであります。事実、この「人身うけがたし」という言葉の持つ響きの中にこもっていると思うのです。

然るに自分がこの世へ人間として生まれたことに対して、何ら感謝の念がないということは、つまりは自らの生活に対する真剣さが薄らいできた何よりの証拠とも言えましょう。

自分は人間として生まれるべき何らの功徳も積んでいないのに、今こうして牛馬や犬猫とならないでここに人身としての生を受けたことのかたじけなさよ!という感慨があってこそ、初めて人生も真に厳粛となるのではないでしょうか。

ですからわれわれも、この「人身うけがたし」という言葉をもって、単に過ぎ去った昔のことと思ってはならぬでしょう。 われわれ現代人は、今日日々の生活に追われて、このように物事を根本的に考えることを怠っていますが、今、われわれは改めて、この言葉の持つ深遠な意義に対し敬虔(けいけん)な態度にたち還って、人生の真の大道を歩み直さねばならぬと思うのです。

●<第20回:最後に>

長い時間、ありがとうございました。 このチャンスを与えていただいたおかげで、自分のささやかな人生、53年間のことを、しゃべらせていただけました。 

もう一つは、「おい、もう53や。俺はあと何年やれるんや?」と自問できました。 一体どういうことを『自分の人生』として残していけるのか? 

私は子どもたちに、「お父さんは多分おまえたちにお金は何も残せない。 だけど、逃げ出さずに最後までやりぬく、残せるとしたら、そんな後姿ぐらいやな 」 そういうことを言ってます。

今日はちょっと無礼講で、親ばかの話をさせてください。 実は私は大学生の娘とメールをやってます。この間、娘が私に、アルバイトの試験を受けに行った時のことを書いて送ってきてくれました。

父の日の日曜日です。 携帯を読みます。「ごめんなさい。今日、いっぱいいっぱいですっかり忘れてました。父の日、おめでとうございます。 今日は本当にうれしかったです。 何かに挑戦するたびに、お父さんの言ってた『人生二度なし』という言葉を思い出します。

結果はどうなるか分かんないけど、今日はもう悔いはありません。 精一杯頑張ります。 お父さんも、仕事頑張ってください」。

18歳の娘がこんなのを送ってきました。 私は自分の子どもたちに、すごく立派な学校を出るとか、とんでもないほどの人生を送るとか、そんなことは全然期待してないです。

私の亡くなった父親や母親が期待してたのと一緒です。 精一杯生きてほしいんです。 何も残せなくても、お互い人間として、人身としてこの世に生を受けた限りは、何らかのものを残していきたいと思っています。

もう100年もしないうちに、ここにいる人たちはこの地球上からみんな消えるわけですけれども、生きた証しをぜひご自身の人生の中で、そしてまた子どもを育てられる、子どもを教育するという立場の中で残してあげてほしい。

それが必ずまた次の世代につながっていくと、本気で思っています。 この時間を与えていただいて、1人でも2人でも良いと思いながら寄せていただいたら、こんなにたくさんの方にご静聴いただいたことに本当に心から感謝いたしております。

今日はどうもありがとうございました。


<次回は最終回です。 >

●<最終回:質疑応答>

<先生>

ちょっと時間もないんですが、何か質問とか、聞いておきたいことがありましたらどうですか?

テーマの「夢を持て」というのと、最初はどのようにつながるのか、と思ってましたが、本当にこのテーマどおり、教師としても保護者の方も、非常に参考になる方が多かったのじゃないかと思います。

特に、僕自身は「人は考えた通りの人間になる」というのは、絶対頭において、これからの自分の仕事もなんですけども、私の子どもにも大事なんだ、という事を非常に考えさせられました。

「おまえは普通の人間と違う、やったらできるのや」という話、これはもう誰にでも当てはまることだと思うし、僕らも仕事上それをモットーにやっていけば、いろんな結果が見れるんじゃないかなと思います。

しかし、これは、はっきり言って、なかなか難しいんです。 先ほども言ってられたように、けなすような言葉がポイと出てしまう可能性もあるんですよね。 「なんや、こんなんもできへんのか」と、これを言ってしまったら伸びるものも伸びないのだと、今のお話を聞いていて、よく分からせていただきました。

それから「塞翁(さいおう)が馬」の話も、僕は教科が国語なんでもちろんよく知ってるんです。 けれども、それをただ、昔の故事成語って事で聞き逃すんじゃなくて、実際今の世の中に当てはめて、また自分のことに当てはめて考えてみられたことがすばらしい。

バブルの話も一般論で聞かされた事はあります。 しかし18歳の時にお父さんが亡くなられて、実際にそんな経験をされる方というのは少ないと思うんです。 よっぽど偶然が重ならない限り、はっきり言って、大学生になりたてのころからお金の苦労、あれは普通ではまずできないですよね。

そういう貴重な経験ていうか、失礼な言い方をしたら、突然地獄を味わったみたいですよね。 そこからもう一度挑戦されたというところが、非常に感銘を受けました。

特に、子どもさんに対する話のされ方とか、今もちょうどメールを読んでいただいたんですけれども、なかなかそういう関係になれるのはいいなあと僕も思います。

うちもまだ小学生の娘がいますけども、なかなか厳しいなあと思いながらきかせてもらいました。


<氏田>

でもね、子どもはね、何にも聞いてないように思っても、こっちが油断したら絶対だめですね。 必ず入ってますね。 私は子どもにいつも言ってるのは、「おまえ何やってんねん、やろうと思うたらできるやろ。 やる気があったら何でもできるんや」って。私の口癖なんですよ。

情熱とか熱意とかやる気が好きなんです。 話は変わりますけど、今は本当に政治がなってないですね。 まず小泉さんがやっぱりダメですね。 もうちょっとしっかり経済をやってほしい。それと、大阪の府知事も市長も、私に言わせたら官僚出身ではだめですね。

経済がわかっていない、世の中をわかっていない。 政治家がとんでもない発言をするから、金融機関はじめ、世の中で予測が付かない事が起きるんですよ。 そんな中で自分でいくら、一生懸命やって頑張ってても、予測のつかないことが起きてきて、とんでもない目に遭うわけです。

さっきの、『やる気があったら何でもできる』話ですが、もう『こてんぱん』にやられてると、「もうだめだ、やってられへん」と、思って弱気になってたんです。 そしたら、息子が帰ってて、「お父さん、やる気あったら何でもできるって、言うてたやん。」ですわ。

「ちょっと待て、おまえから言われたないわ!」って、笑い話ですけどね。 うちはみんなそういう場面で軽く言ってますけど、お互い牽制してますね。 下の子どもが小さい時に、お兄ちゃんの友だちが来てて、家で一緒にご飯食べて話をしてます。

そこで私はすぐ、『人生論』になるんですね。 相手は子どもですよ。 私が何か話し出すと、10才離れた小学生の妹が『パカッ』と話し出して、「ええか、人生はな……」(笑)。

って、腕を組みながら言うわけです。それでふっと我に返って、「ああ、子ども相手にそんないうたらあかんわ」と気が付く訳です。 さっきお話ししたのは娘との携帯のメールですけれど、手紙でもくれます。

私はそれを常時持ってます。 やっぱり何よりも励まされますね。 「そや、子どもには負けられへん」と。最近子どもさんと友だちづきあいをしている親御さんが非常に多いし、先生方も皆さん仲いい方が多いらしいです。

でも 私は子どもとは友だちじゃないと思ってます。 私はどちらかいうと、子どもは私にとって一番のライバルです。 たぶん娘は、母親にとってライバルだと思いますね。

この間も「この子、私の若い時よりべっぴんかなあ」って。 「そらおまえ、勝てんわなあ」(笑う)って話したんです。 やっぱりそれぐらい真剣に、自分の子どもと勝負しないといけないと思います。

実は一番のライバルは自分自身だと思うんですよ。 自分には一番甘いし、自分のこと一番よく知ってるわけです。 次のライバルは自分の子どもたちだと思うんですね。 

その子どもたちとは真剣に向かい合って話をしてやる。 彼らも私に対して一線引いて話をしてくれますし、私もそのつもりで小さい時からやってきました。 これはまだ、分かりません。言ってるうちにがらっと変わっちゃうかもしれませんけど、今はそういうふうに思ってます。

うちのホームページに 『社長の対談』 コーナーがあります。 これはコマーシャルじゃなくて、実は私が非常に感銘を受けた方々といろんな形で対談をしてるんです。 近所で出版のミニコミ新聞に載せてた分で、13~14人おられるんです。 それを自社のホームページにアップしてます。

2~3年前から古いのは10年ぐらい前の分までアップさせてますので、またお読みください。 私の話は全部、そんな方々の「受け売り」です。

自分で考え出したものは一切ないです。 全部どこかで聞いたりして学んだことでして、自分にはそんな想像力はありません。 人から聞いたことをアレンジして知ってるだけのことです。

今日はそんなことをお話しさせてもらいましたが、またよろしかったら皆さんも是非ご活用下さい。

今日は本当に、こんなにたくさんお聞きいただけるとは夢にも思ってませんでした。行き届かないところがあったかと思いますが、どうぞお許しください。


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