会社創業からの沿革
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<創業者 氏田寅吉> 弊 社創業者の氏田寅吉は明治40年10月大阪府東成郡住吉村(現、住吉区上住吉)にて父、由松の三男として出生。現在の今宮工業高校夜間部の電気科を卒業 後、一時期繊維関係の仕事もするが、好きだった機械、電機の技術を活かしたく、兄、朝吉の経営する株式会社三和自動車工作所で修業し、戦争中の中断時期を 経て独立開業した様である。詳しくはすでに本人が他界している為、残された諸々の資料からの推察もある。 ちなみに、私は父、母と亡くした後、自分の事が知りたくて、区役所に行って除籍謄本などを上げてみたが書類は除籍後80年しか保存をしていない様で、私の様に檀家寺が過去に火災を受けている者にとっては、自宅に残された過去帖と父の残した経歴書しか頼るものがなかった。 私の父の寅吉、祖父の由松(明治8年生)までは載っているがその父、つまり曾祖父がこれまた戸籍では寅吉(過去帖では彦七)という名前で、本籍が住吉郡住吉村102番屋敷だった事と曾祖母ツキは嘉永元年4月生まれで、明治35年8月まで生きていた事までしか分からなかった。 もし、この文面を読まれた方で私と同じ様な事に興味を持たれる方は出来るだけ早い時期に資料を集めておかれる事をおすすめしたい。 |
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話は全く横道にそれてしまったが、とにかく機械や電機の好きだった父寅吉がその当時、時代の最先端だった自動車に興味を持ったのは、自然のなりゆきだったのかもしれない。 日本政府が豊田自動織機と日産自動車を 許可会社として認めたのが昭和11年(1936)9月。その前年の昭和10年(1935)に父寅吉は大阪市西成区で、自動車修理業を開業したが、戦時中の 企業整備により昭和14年にやむなく廃業。一時期、大阪西成運送株式会社に籍を置いたが、終戦の年、昭和20年(1945)12月、現本社工場所在地の帝 塚山にて自動車修理業をふたたび個人開業。昭和25年(1950)8月2日に有限会社氏田自動車工作所として兵庫県の加古川支店ともども法人登記されてい る。 |
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<会社創業> このあたりを企業の創業時期というのであろうと思い、「1950年、昭和25年創業」としている。亡き父寅吉は、その言葉を借りると「車や単車で直らないものがあれば、遠くからでも持ち込んで来た。」とか「車は音を聞いただけで悪い所が判り、直せる。」と自慢していた。
工場内には自動車部品の製作や加工をするための本格的な施盤や工作機械が置かれていた。その様な工作機械は時代の流れの中で、すでに使っていないにも関わらず、私の時代になるまで大切に置かれていた。又、お客様についても官公庁関係が多く、大阪府警だけでも、地元の住吉、阿倍野、東住吉、南、黒山、堺北の各署パトカーをはじめ土木関係の工営所の特殊自動車など、実に多岐に渡る車が整備入庫をしていた。 遠方のお客様ではっきり覚えているのは、兵庫県八鹿の土木局の方が特殊車両の整備や検査でよく泊まりがけで持ち込まれていた事だ。とにかく昔の弊社を知っている方々は「パトカーがよく入っている修理工場」と思っておられたと思う。それにしても今から思うとやはりすごい「整備職人」の会社だったようだ。 |
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<事業家> 又、事業欲も旺盛で、前述の加古川支店にガソリンスタンドを併設したり、納入業者だった部品商の経営に参画したり、得意先の運送会社の経営を引き受けたりしていた。特に運送会社は大福運送株式会社といって、後年当時勤めていた番頭さんに会社を譲ったが、その後私が初めて不渡手形をつかまされた会社となったので、忘れることは出来ない。
そ んな父寅吉であったが、病いには勝てず昭和43年8月10日、突然この世を逝る。享年60歳であった。時期が急だった事もあって、この後、事業継承に困る 事になる。父の事業家としての活動には今でも敬服しているが、逆に「反面教師」として「人を育てる」点では特に勉強になった。拠点を増したり、新規事業を していく時の「人」の重要さである。負けず嫌いというか自信家というか、「自分 は尋常小学校と夜間学校しか出ていない。それでも腕に職があれば良い。」とよく言っていた。自分に自信があり過ぎたのか、その分人に頼らない。だから人が 育たない。「男の意地」も大事だが、「弱さ」を見せる事も良いように思う。又自分から、こちらから詫びる勇気を持つ事を、今、私は肝に命じている。 |
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<二代目 就任> 初代寅吉逝き後、二代目社長に私の兄 氏田洋吉が就任した。しかし先代が超ワンマンで何でも出来た人であっただけに、後継者の兄は大変苦労した様だ。私は高校3年生だったので、その辺のところは、はっきりとは分からないが、関西大学の二部(夜間)に通いながら、会社に入社する様になって問題の大きさに気がついた。“自動車屋”という仕事は、実に多くの要素から成っているということだ。 まず、実務としての整備技術、営業、事故処理、保険、登記関係、、そして経理としての銀行関係、資金繰り等々、まだまだ諸々ある。書き出すとキリがないので省略するが、組織としてある程度以上の規模になると、やはりもう少し社員で分担した運営を考えておいてもよかったのかも知れない。 会社はやがて技術的な問題からも営業が出来ない点からも、経営がうまくいかなくなり資金繰りにも困るようになって、昭和46年、企業縮小をせざるを得なくなり南住吉の工場を手放した。一代で頑張ってきた父の息子としてこの時の悔しさは今でも忘れる事は無い。 |
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<氏田耕吉・社長就任> 社長就任などと書けばカッコ良く聞こえるが、実は私、耕吉は昭和46年頃からの会社不遇の時代は「夜間の大学」を卒業するまでのつなぎのつもりで、1人で仕事をしていた時期があった。
「掛けた情は水に流せ、受けた恩は石に刻め」という言葉があるが、果たして一生をかけてもお返し出来ない程の恩を受けたと思っている。 とにかく昭和46年会社発祥の地、住吉区帝塚山の工場で私は1人で再スタートする事になる。仕事があれば、何でも引き受ける姿勢であった。 昭和48年に結婚をし長男、次男が生まれてからは、「もう逃げ出せない」「一生この仕事」という思いで頑張った。
会社の方も一段落したので、昭和50年6月に三代目代表取締役として就任登記した。ちょうど、昭和40〜50年というのは自動車関連業界の高度成長期であった。古い歴史を持ちながらも、企業縮小という点で整備工場としては世の中の流れに乗り損ねた感もあったが、当時自動車の性能がどんどん良くなり故障も減り、時期がくればやがて車検制度も見直されるであろうことは、冷静に考えてみればおおよそ察しがついた。その時、整備専業の工場だけで、どうして食べていけるのか?と思い、中古車販売を手掛けることになった。 |
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<初めての中古車センター> 昔の自動車整備工場では、新車も中古車も紹介販売程度で、「車の販売はしない」という工場も多かった。当初は中古車を仕入れてきたり、新車を販売した時の下取車を仕事の合い間に整備して、仕上げておき お客様に買って頂く方式だった。 ほとんどが既納先の方や紹介の方だったので、みなさんが安心して購入して下さった。 さらに、売上をのばそうとしたのが中古車展示場(センター)での販売方法だった。
工場のすぐ近く、阿倍野区帝塚山の道路沿いに、青空のモータープールが出来たので、さっそく半分ほどを借り受け中古車を12〜13台並べて、販売をすることになった。これがウジタオートセンター1号店で昭和55年(1980年)のことである。
今までような既納先のお客様に車を買って頂くのとちがい、全く通りがかりの方や雑誌をみて来られる初対面の方がほとんどであった。そのような一見(いちげん)さんにも多数買って頂くことができ、おかげ様で販売は順調に推移し、借りていたモータープールも全敷地150坪で運営することになっていく。 |
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<オートサロン開設> オートセンターをはじめて9年後の平成元年にすぐ50Mほど東にウジタオートサロン帝塚山店を開設した。お客様のご予算やライフスタイルに応じて車選びをお手伝いするのが、コンセプトの、文字通り「サロン」をイメージしての開設であった。 例えば、新車を購入しようと思う。まず、今、自分にはどんな車が考えられるのか? 誰に相談したら良いのか?仮にA、B、Cという候補が見つかったとすると、各3社に車を見に行って見積もりをもらわないといけない。 また各社はそれぞれの自社の車の良いところは言ってくれるが、どれもセールス口調でどこからどこまで信じて良いのかわからない。また商談後のセールスの追い込みがわずらわしい。そんな事で悩み、面倒になり、誤った車選びをしている事も多いのが現状のようだ。 そんな方々のために、お客様に売りっぱなしにしない、一生のカーアドバイザーと思って頂けることを願い運営している。 <ウジタオートサロン住吉店> 弊社初の中古車販売拠点であった「ウジタオートセンター」の立退きによる移転話が出たのも平成元年の事だった。そこで場所を物色していると、見つかったのが、なんと初代寅吉社長時代に取得、没後に売却した元の南住吉工場のすぐ50mほどの場所だった。 何かの縁なのか、バブル期の状況だったのか銀行ともすぐに話が進み、同元年夏には開設となった。 どちらかと言うと狭いスペースということと、近所には国産の中古車センターも多いということで、あえて輸入車専門の中古車センターとしてオープンし、現在も運営している。 |
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<ウジタオートサロン豊中店> 1990年、平成2年、今から思うとバブルの崩壊の始まっている年なのだろうが、その渦中ではわからなかったのが事実だった。念願だった北摂地区、豊中市緑丘の中央環状線沿に初めての大型店舗(350坪)をオープンをさせることとなった。 当時はなかなか手に入らなかったプレミアの新型車などを集めたが、時代の変化とともに今は輸入車全般を完全にフォローできる店創りを目指している。 もちろんサービス体制も整え、新車、中古車と輸入車の総合拠点となってきた。 |
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<企業100年の大計> 只管感謝。 2005.08.02. 氏田 耕吉 記 |