ブログ

2007/07/21 氏田 耕吉


ブログなるものが世の中に出てから
まだ数年しか経ってませんが、
これは画期的なものですね。

各自の日記を公開、てな調子ですが、、、、、

実はこれで書き手の色々な事が
見に来る方に手に取るように判る!!

考えてることや
やってること
はたまた、その方の諸事情まで、、、、、、

わが社ではデイリーの毎日の書き手さん、
社員の独り言でアップしてくれるメンバーさん、と、、、、

皆さんと
『時間と空間を共有してる』 事が
はっきり実感できますね。

うれしいことです。
ありがとうございます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて今日、明日は豊中店で新型車の展示試乗会。
http://www.ujita.co.jp/2007tenjikai-toyonaka.pdf

とにかく、今回は値打ちのある事、請合います。

雨が降っても、
豊中店は地下駐車場が広いので
ぬれる事なし!

是非とも覗いてみてくださいね。

氏田耕吉でした。


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新潟県中越沖地震

2007/07/20 氏田 耕吉


先週大きな台風が来る、、、
なんて騒いでる内に、、、

新潟県で大きな地震が起きました。

新潟県中越沖地震でした。

しかし人間なんていい加減なもので

その昔、阪神大地震の時は
すぐ隣の兵庫県だったので実感も有り
皆で救援物資を運んだり、
ボランテアで掃除に行ったりと
応援に行ったのですが、どうも今回は
気持ちも動きも鈍いですね。

反省。

火曜日の帝塚山の懇親会の時でも
たまたま新潟県出身の方が居られ
言い出していただいたおかげで
やっと募金活動が出来たくらいです。

「人の痛みの判る人間になる」
これこそ、人としての人生ですよね。

更に只管反省。

原子力発電所の事故も大変ですが、
現地で事故に遭われた方こそ
本当にお気の毒です。

お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、
被害に遭われた方には
心よりお見舞い申し上げます。


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どっちが先か?

2007/07/14 氏田 耕吉


先日、新聞のコラムに興味深い事が書かれてました。

実験で
鉛筆を横に咥えて、
つまり口にくわえる訳ですが、

1、唇でかむ。
2、歯で噛むように咥える。

の二通りで色々なものを見せたり、読ませたりする。

その後、その各々の事例を後から検証するんだそうです。

すると、
1、唇でかんだ時と
2、歯で噛むように咥えてた時では

明らかにその本人の感じ方が違ったそうです。

1、唇でかんだ時はネガティブ(否定的)に
2、歯で噛むように咥えてた時ではポジティブ(肯定的)に
物事を感じたり、理解したりしてたそうです。

おわかりですか?

そう、
1、唇でかんだ時には難しい顔に、
2、歯で噛むように咥えてた時では歯が見えて
笑顔になってるそうです。

どっちが先か?

たまたま、今期の弊社のスローガンは
『笑顔』 (吉田進矢提案)

笑顔の連鎖で全てを良い方向に!

これが今日の氏田耕吉の報告でした。


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大阪見物半日コース

2007/07/07 氏田 耕吉


弊社担当の保険会社の新任営業マンが
関東出身で、友人が大阪に来たがると聞きつけました。

そこで食事付き
大阪半日観光を企画してみました。

ちなみに私共は車屋だけに移動手段はもちろん車、
レンタカーもオーケーですが、
購入なら「ウジタオートサロン」を
よろしくお願いいたします(??) 。  何のコッチャ?

まずは大阪到着は 新大阪 か大阪駅
はたまた、伊丹空港でしょうか?
(関空は想定外ですが、それなら、南海電車で難波まで40分で出てください。)

時間にもよりますが、昼食が必要なら
軽い目で、大阪のラーメン。 私なら、神座(かむくら) かな。
名物ならお好み焼き、これはたくさん有りますが、私は「風月」で、
豚玉モダン(焼きそば入り)に葱かけが大好物。

その他は昔ながらの自由軒(難波)のカレーや
明治軒(心斎橋)のオムライスでしょうか?

そしてまず、最初は
大阪城、周りにたくさん駐車場は有ります。

場内を歩いて是非とも天守閣の下までは行って
そこをバックに撮影して下さい。  http://www.museum.or.jp/osakajo/

%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%9F%8E.jpg

その時、時間が許せば直ぐ西隣の
NHKホールに隣接の
大阪歴史博物館へも立ち寄りください。
良く出来てて、まさに大阪の歴史がよく判りますよ!

その後は上町台地を南下、
聖徳太子の建てた
「四天王寺さん」へ寄ってください。(東隣に駐車場)

そしてここでは有名な石舞台の
「天王寺の亀」を見る事。(チョット汚れてますが、、?)

天王寺の亀

その後は最近話題の多い
「新世界見物」 と 「通天閣」 です。
その辺にはコインパーキングがたくさん有ります。

新世界.jpg

そのあたりはレトロな感じで、
今は赤井英和が復活協力で売り出した
「くしカツ」も話題ですがこれは「名物に、、、、」かな?

ここまで来たら、「通天閣」 では上まで上って、是非
ビリケンさんの足を擦って、お参りして下さい。

願いが叶うかも?

ビリケンさん

そこまで行けたら後は

「大阪南」 は難波、道頓堀がいいですね。

たくさんの外人さんに混じって
グリコの看板、かに道楽の特大かにの動く看板。
そして、「食いだおれ」前にある人形と記念撮影をする。

最近は安くて、面白く遊べる
道頓堀極楽商店街もお奨めです。
 ( http://www.doutonbori-gokuraku.com/ )

道頓堀極楽商店街.jpg

もしここらで予算が底を尽いたら、
その道頓堀通りを少し東に歩いて、

道頓堀川の川横に有る方の
「金龍ラーメン」
(近所にたくさん有るので間違えない事)

金龍.jpg

ここは表の自動販売機で 600円のラーメン か 900円のチャーシューメンの
食券を買って中に入ったら、
何と、白ご飯食べ放題、キムチ食べ放題 の 超穴場でもあります。

最近は外国からの出稼ぎか、変なのも多いので
裏どうりやキャッチガール、ボーイには
くれぐれもご用心いただき
おいしい食事と大阪の夜をお楽しみください。

今回のツアーは

大阪生まれの大阪育ち、と言うより
大阪しか知らない
氏田耕吉の企画でした。


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街づくり二十年(下) 「十年偉大なり、二十年畏(おそ)るべし、三十年にして歴史なる。」

2007/06/30 氏田 耕吉


帝塚山地域には、恒例化しつつある
いくつかの大きな行事がある。

毎年一月下旬に行なわれる帝塚山街づくり交流会(略称TMK)主催の
新年互礼会が一年のスタートだろうか。

次に続く各実行委員会による行事は、
五月の「阿部野薪能」と「帝塚山音楽祭」、
そして八月の「帝塚山まつり」、
十一月の「帝塚山カップゴルフ選手権大会」となる。

 今年も五月の「帝塚山音楽祭」は六万人超の動員で大盛況に終わった。
そして早くも八月の「帝塚山まつり」や
十一月の「帝塚山カップゴルフ選手権大会」に向けて、
各実行委員会は準備を始めた。

 昨年六月、TMK主催で「街づくり二十周年を祝う会」を催した。

長い年月を経た街づくり活動に携わった人達で1〇〇名予定の貸切会場は、
定員オーバー、人であふれた。

 こんなに多くの方々に、集まって頂けたのは何だったのか。

そう、皆さん「街に惚れている」のだろう。

かって、亡父の結婚式での祝辞を母親から教えてもらった事がある。

それは「男の三惚れ」、
つまり「住む所に惚れ、仕事に惚れ、女房に惚れよ。」という話だった。

自分が生活や仕事をする、その場所に惚れる事はすばらしい。
そう思えばこそ、この時もたくさんの人々が集まられたのだと思う。
人前で自信を持ってこのスピーチをしていた父親を誇らしく思っている。

 諸々の行事について、私は消化型の行事運営は好きではない。
常に参加したくなるような企画を、協力したくなる運営で進めたく思っている。

しかし、実はこれが大変難しい。

 かつて、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんから
掃除に関するお話から
「十年偉大なり、二十年畏るべし、三十年にして歴史なる。」と教えて頂いた。

http://www.ujita.co.jp/Tai01.htm

 この「街づくり活動」も初めの頃はどうなるものかと思っていたが、
十年で形は出来上がった。

そして早や二十年、これはまさに「畏るべき」ことだ。

しかし、三十年にして「歴史」となり、続くためには
次代を担う人達が必要だ。

世の常かも知れないが、各実行委員会でも、
この後継者問題に苦慮している。

帝塚山まつりの「子供みこし」や「子供だんじり」そして「だんじり太鼓」も二十年経ち、
数年前から、その子供達の
「帝塚山青年団」が自然発生(?)した。

さらには「帝塚山青年塾」も出来て、
実社会をテーマに人生塾のような自主勉強会も始まっている。

これもまさに十年単位での活動になりそうだが、
継続していかねばならない。

今までは我々の世代が街づくりの第一線で活動してきたが、
これからは、その次世代に自ら活動する
若者を育てる役割をせねばならない。

それこそが三十年という歴史を作り、
又、更なる継続を可能にする。

長い歴史を望むならば、
年齢とともに役割を変え、
交代する時期が必要だ。

 「人生二度なし」(森 信三)、

人として生きた証しを刻む為にも、次の街づくり活動に向かいたい。        只管感謝 

   (大阪日日新聞 2007年6月29日掲載,、街づくり二十年から)


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<街づくり二十年(中) 住民による、住民のための街づくり>

2007/06/29 氏田 耕吉


帝塚山街づくり交流会(略称TMK)の初めてのイベントとなった
「走れ ぼくらのチンチン電車」。その表彰式のあった、
1987(昭和62)年はTMKのもろもろのイベントがスタートする年となった。

5月には阿部野神社で「阿部野薪能」が始まる。
これはTMKの活動とはいえないだろうが、
当時氏子青年会会長を務めていたわたしも第1回実行委員の末席をけがすこととなった。

氏子青年会は、地域の町内会や子供会の活動を気にされていた
中塚昌宏宮司(当時は禰宜職)の声掛けで結成された。

従来の氏子総代会活動とは別に「子供みこし」を作り、担がせることから始まり、
数年後には念願の「子供だんじり」まで巡行させていた。

事情で青年会は解散したが、「子供だんじり」は「阿部野だんじり」と名前を変え、
「帝塚山まつり」の一環として現在も子どもたちがえい航をしている。

さてその「浪速津南阿部野薪能」は
今年も5月17日(木)鎮守の森、阿部野神社境内にて、
第21回(委員長加地靖通)を開催する。

問い合わせは電話06(6661)6243、薪能後援会事務局へ。
ホームページのアドレスは次の通り。http://www.abenojinjya.com/

話は相前後するが、その年の8月にウジタオートサロンの展示場スペースを使った
「おーきに祭」が行われた。

これが現在、21年続く「帝塚山まつり」につながっていくこととなる。

最初は多種多彩な業種の方々に集まっていただき、
フリーマーケット形式で地域還元、感謝の意味を込めての開催だった。

「帝塚山」という地域柄、「打てど響かず」かと想像していたが
当日は予想を超えた反響と動員数に人々は驚くこととなる。

その中の一人に池田正仁さんがおられた。

彼はジャズをはじめとする音楽に造けいが深く、
以前より地域を挙げてのライブストリートを考えておられた。

「おーきに祭」当日、熱っぽく語られたその思いは同年11月、
第1回帝塚山音楽祭(委員長森一貫)としてスタートすることになる。

第2回目からは5月開催となり、
第21回(委員長橋本秀信)の今年は5月26(土)27(日)の2日間、
熱心なスタッフたちにより開催される。

今回は、(1)ライブストリート(有料)(2)万代池公園野外ステージ(入場無料)
(3)万代池ラウンドバザー(同)(4)コミュニティー広場(同)が催される予定である。

問い合わせは電話06(6678)0022、音楽祭事務局へ。
ホームページのアドレスは次の通り。http://www.tezukayama.com/ongakusai/

さて話は戻るが、88(昭和63)年には「帝塚山カップゴルフ選手権大会」がスタートする。
これはゴルフを通じた地域住民の交流の場がコンセプトだった。

第1回は地元の故大屋政子さんが理事長だった
「室生ロイヤルカントリークラブ」(現ムロウ36ゴルフクラブ)で開催された。

その後は地域外からの参加者も増え、開催会場もいろいろと変わった。

第20回記念大会(委員長前山村雄)の今年は11月3日に、
その「ムロウ36ゴルフクラブ」で計画されている。

問い合わせは電話06(6627)1590、同事務局へ。

これらの街づくりイベントは行政や企業の主催とは違う。
企画から運営まですべてを住民である実行委員が、参加する住民のために行う。 
それをもって双方の住民はさらに親密になる。

これこそが「街づくり」の本来の原点で、スタートではないだろうか。

(大阪日日新聞 2007年5月15日掲載)


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<街づくり二十年(上) 人が街をつくり、街は人をつくる>

2007/06/28 氏田 耕吉


 1983年(昭和五十八年)、阪堺上町線帝塚山三丁目駅前に有った
故中村画伯邸の跡地の塀がつぶされた。

その場に残された蔵の事務所前にいきなり大きな看板が立った。

「帝塚山らしさってなんやろか?」ただそれだけが書かれた看板に、
私は生まれ育った帝塚山への挑戦的なメッセージを感じた。 

吸い込まれる様に入っていくと、現在同地に立つ
商業施設「ミューズコート帝塚山」を計画した
R&Dアソシエイツの小山雄二さんが居た。

その日から「帝塚山はこのままで良いのか、将来どう在るべきなのか」、と
連日のように地域外出身の開発スタッフと話し込んでいく。 

後から考えると若者のとりとめのない話だったのかも知れないが、
私は生まれ育った帝塚山が好きだった事に改めて気づいた。 

その後流行のようになった「街づくり」という言葉を聞いたのもその時が初めてだった。 

近所の三笠寿司の多田嘉幸さんを加えた三人で街を考える会はスタートする。
 その後は最初の三人が次のメンバーを誘い、六人に、
六人が十二人と増えていき、会合を重ねていった。 

帝塚山に何らかの関連を持つ人達が増えてきて、やがて出来上がったのが
「帝塚山街づくり交流会」(略称TMK)だった。

 集まりには肩書や思想は関係無く、自由に「街づくり」への想いを語る。
会則、会費、会長などは一切無し、

ルールは「政治宗教抜き」だけだった。 
各自をよく知り合う事から始まり、ディスカッションやシンポジュームなども行った。
会報誌の代わりに「帝塚山流通新聞」なるものを作り、自主採算で今も発行を続けている。

そして1986年(昭和六十一年)十二月のTMKの忘年会で、
「走れぼくらのチンチン電車」が発案される。 

当時始まっていた阪堺電車の車体広告を使った企画である。 
小学生を対象に「電車の絵画コンクール」を行い、そ
の一点を実際の電車に描いて二年間走らせようというものだった。 

TMKの有志による「走れぼくらのチンチン電車」実行委員会
(委員長多田嘉幸)が発足したのは、年の瀬の迫った十二月二十五日だった。 

テーマは「子供たちの夢を乗せて走るチンチン電車、将来想い出してくれるだろう自分達の創ったチンチン電車、そして自分達の街」と決まった。

TMKメンバー企業が電車広告を協賛いただける事はすぐに決ったが、
その後が続かない。 
しかし実行委員各自による地道な運動の結果、
実に多くの方々の協力でやっと実現できることとなる。

人づてにお願いし、何とか2月5日に朝日新聞夕刊の社会面トップで取り上げられる。 
これをきっかけに四大新聞をはじめテレビ、ラジオ各局の取材が始まり、大きな話題となった。

全国から集まった五八七二点の応募から
小学六年生の沢田美穂ちゃんの絵が決まり、4月5日から二年間走らせることができた。 

そして、これをきっかけに「帝塚山街づくり交流会(TMK)」の名前は一気に知れ渡り、
メンバーが増え、更に次の活動へと繋がっていくことになるのだった。(次回に続く)

                              (大阪日日新聞 2007年4月2日掲載)


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