<街づくり二十年(上) 人が街をつくり、街は人をつくる>
2007/06/28 氏田 耕吉
1983年(昭和五十八年)、阪堺上町線帝塚山三丁目駅前に有った
故中村画伯邸の跡地の塀がつぶされた。
その場に残された蔵の事務所前にいきなり大きな看板が立った。
「帝塚山らしさってなんやろか?」ただそれだけが書かれた看板に、
私は生まれ育った帝塚山への挑戦的なメッセージを感じた。
吸い込まれる様に入っていくと、現在同地に立つ
商業施設「ミューズコート帝塚山」を計画した
R&Dアソシエイツの小山雄二さんが居た。
その日から「帝塚山はこのままで良いのか、将来どう在るべきなのか」、と
連日のように地域外出身の開発スタッフと話し込んでいく。
後から考えると若者のとりとめのない話だったのかも知れないが、
私は生まれ育った帝塚山が好きだった事に改めて気づいた。
その後流行のようになった「街づくり」という言葉を聞いたのもその時が初めてだった。
近所の三笠寿司の多田嘉幸さんを加えた三人で街を考える会はスタートする。
その後は最初の三人が次のメンバーを誘い、六人に、
六人が十二人と増えていき、会合を重ねていった。
帝塚山に何らかの関連を持つ人達が増えてきて、やがて出来上がったのが
「帝塚山街づくり交流会」(略称TMK)だった。
集まりには肩書や思想は関係無く、自由に「街づくり」への想いを語る。
会則、会費、会長などは一切無し、
ルールは「政治宗教抜き」だけだった。
各自をよく知り合う事から始まり、ディスカッションやシンポジュームなども行った。
会報誌の代わりに「帝塚山流通新聞」なるものを作り、自主採算で今も発行を続けている。
そして1986年(昭和六十一年)十二月のTMKの忘年会で、
「走れぼくらのチンチン電車」が発案される。
当時始まっていた阪堺電車の車体広告を使った企画である。
小学生を対象に「電車の絵画コンクール」を行い、そ
の一点を実際の電車に描いて二年間走らせようというものだった。
TMKの有志による「走れぼくらのチンチン電車」実行委員会
(委員長多田嘉幸)が発足したのは、年の瀬の迫った十二月二十五日だった。
テーマは「子供たちの夢を乗せて走るチンチン電車、将来想い出してくれるだろう自分達の創ったチンチン電車、そして自分達の街」と決まった。
TMKメンバー企業が電車広告を協賛いただける事はすぐに決ったが、
その後が続かない。
しかし実行委員各自による地道な運動の結果、
実に多くの方々の協力でやっと実現できることとなる。
人づてにお願いし、何とか2月5日に朝日新聞夕刊の社会面トップで取り上げられる。
これをきっかけに四大新聞をはじめテレビ、ラジオ各局の取材が始まり、大きな話題となった。
全国から集まった五八七二点の応募から
小学六年生の沢田美穂ちゃんの絵が決まり、4月5日から二年間走らせることができた。
そして、これをきっかけに「帝塚山街づくり交流会(TMK)」の名前は一気に知れ渡り、
メンバーが増え、更に次の活動へと繋がっていくことになるのだった。(次回に続く)
(大阪日日新聞 2007年4月2日掲載)