社長の講演<その3> 育縁、活縁
2007/09/15 氏田 耕吉
育縁、活縁 ご縁に生かされて
2006.6.21.サンゆ倶楽部ロビーでの講演から
1、 異業種交流会「サンゆ倶楽部」
今日は「育縁、活縁」というテーマで「ご縁」についてお話させて頂きます。
昔から私は「顔が広い」とかよく言われます。
勿論、顔の面積?の事ですが(笑?)、、、
今年のサンゆ倶楽部のテーマでも有ります、
「育縁、活縁」の人様とのご縁こそが、
その人付き合いや人脈に繋がってると思います。
まず最初は「サンゆ倶楽部と私」ということで始めます。
私がサンゆ倶楽部に入れていただいたのが、昭和52年です。
27歳でしたから、足掛け30年ほど前ですかね。
同業の吉田常男さんに連れられて、
大阪、北区の中崎町の例会場に寄せていただきました。
いきなり連れていかれた、そのマンションの一室の入り口に
「生きがい研究所」と書いてありました。
「なんや、これは、変な宗教団体かな?」と思って
入っていったことを思い出します。
入るやいなや「メメントモーリ」ということで握手を求められた訳です。
このサンゆ倶楽部では、今日も何人かの方と握手したのですが、
それが挨拶ですよね。
会ったらいつも握手をするんですね。
『メメントモーリ』はラテン語の宗教用語で、
「あなたは死ぬことを忘れてませんか。」と言う事だそうですね。
しかし相変わらず、高田宏成先生のが一番強烈ですね・・・
その時も一番思いがこもっているという思いで始まりました。
私にとりましては、このサンゆ倶楽部で学んだことが活かされて
今日の自分があると思います。
これこそ一番の「ご縁」かなと自分では思っております。
ちょっと話は前後しますが、私の家はもともと自動車の修理工場です。つい最近『ALWAYSー3丁目の夕日ー』という映画があったんですが、見られた方おられると思います。
かなりの人気で、日本アカデミー賞を取った映画です、、、、、、
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昭和30年代、東京の下町の修理工場が舞台です。
実はその映画を作る1年半ぐらい前に東京からいきなり電話がかかってきまして、
うちに取材に来たいということになりました。
うちのホームページに「会社の創業からの歴史」というのを入れているものですから、
検索してそれを見られたようで、たぶんぴったりでしょう、ということでお越しになりました。
その映画のもともとは、アニメなんですが、その映画に出てくる俳優の堤真一さんが
修理工場のすごい頑固者の親父で、
一平少年という8歳の少年も出てくるんです。
ちょうど私は昭和25年(1950年)生まれで、昭和33年と言うと、8歳です。
まさにその一平少年の世代で、
『3丁目の夕日』そのものが、うちの昔の修理工場そのままなんです。
ものすごくなつかしく思うんですね。
よかったら見てください。
すばらしいです。
この世代の人は必ず泣きます。
途中はずっと笑いますけど、最後にはぐっと泣いてしまうような場面が
絶対出てきますから、ぜひ見てほしい。
最後の最後に、エンドロールのところに、協力ということで、
「ウジタオートサロン」という名前が出てきますので
そこまで見ていただけたら非常にうれしいですね。
本当に忘れていた日本の古き良き時代というか、
戦後の高度成長に向かうような頃のほのぼのとした温かさのある中に
人情味を感じられるようなそんな映画なんです。
私はそういう家庭に育っています。
18歳、高校三年生のときに父親を亡くしましたので、
よそへ働きに行くこともなくこの仕事に入りました。
兄が二代目を継いだのですが、2年で立ち行かなくなって、20歳のときに、
「どうせやったら僕がやろう」ということで三代目を継ぎました。
実は関西大学の二部にも通ってました。
格好よく言うと、親が死んでもどうしても大学に行きたかった、、、
不細工に言うと、昼間の大学は受けても通らんやろうから夜学に行った、
というふうなくだりです。
4年間大学に行くために、昼間は自分の兄のやってる会社で働きながら行こうと思ってたんですが、
途中で兄が辞めちゃったもんですから、
最後は何とか必死の思いで卒業しました。
4年目のときは、履修した授業が全科目取れないと駄目。
つまり「可」でもいいから全部通らん、と卒業できなかったんですけど、
なぜかそれでも卒業できました。
実は卒業する直前に結婚したもので、
これで落ちてたら学校を辞めようと思ったんですけど、
何とか卒業できたと言うより、しましたね。
次回に続く、、、