私の 「決めた者(モン)勝ち」

2007/02/17 想い、願い

昔、子供の頃に、「速い者(モン)勝ち」とか
「言うた者(モン)勝ち」などと
言い合っていた覚えがあります。

今日は、私の「決めた者(モン)勝ち」の話です。

私は子供の頃から、自分は大きくなったら何になるのか、
はっきりした事が分からないまま社会に出ました。
出たと言うより父親が亡くなった後、
関西大学の二部学生(夜間)になったので、通学できる条件上、
無理の効きそうな亡父の創業した自動車整備工場に入社した訳です。

父親からは自動車整備の自慢話(?)を、たっぷり聞かされていましたし、
元来私も機械いじりが好きだったので、当然の成り行きでもありました。

話は、省略しますがその2年後、会社を一時閉める事態に陥りました。
(興味の有る方は、弊社ホームページ「社長の講演2」
http://www.ujita.co.jp/2koen1.htm をご覧下さい。)

お客様にも、お取引先様にもご説明をしての事ですが、ちょうどそんな折の事です。
朝早くに「車が出先で動かなくなった」と近所の
早嶋勝さんから自宅に電話が入りました。
私も結構器用な整備士で、出張に行ってすぐ動く様に出来ました。

その時、私に「何んで会社を閉めてるの?」と聞かれました。
私は、「もう自動車屋はあきませんねん。
仕事は大変やし、汚いし、しんどいばっかりです。
夜学やけど大学出たら勤めに行こうと思てます」
すると、「じゃ、どんな仕事が良いの?」と聞かれ、
私は「ホワイトカラー、早嶋社長のような仕事」と答えました。
その方は、立派な会社をいくつも経営され、スマートな生き方をされてました。

「いや、私は君の方がええと思うよ。
だって車が動かなくなって困ってる時に来てくれて、
直してくれる。
人の出来ん事して、人の役に立てる。
そんな仕事は素晴らしいん違う?」

その言葉で昔、父親が「人様のお役に立つ。
そして、その自分の仕事でお金が頂ける。
こんな仕事はええで」と、
よく言っていたのを思い出しました。

更に、「仕事は多分何をしても一緒。
他から見て良いと思っても、どんな仕事でも大変。
だったら今の仕事が良いと思うよ。」
と、言われました。

たったそれだけの事でしたが、私はその時に
「自分は一生、自動車屋」と思い始めたのです。
自分で決める事で、何か吹っ切れた思いで、
その後は迷ったり悩んだりしなくて済みました。

それからも事業の拡大・縮小も含め、悩み尽きない事も多々ありました。
平成3年のそんな折にも、
モスバーガーの故、櫻田慧さんに
講演会の司会が縁で、励まして頂いた事が有ります。

その時は「一大決心」という言葉を頂きました。
「何が何でも成功させる。」
「何が何でもやり通す。」
本気の決意の必要性でした。

いずれも、今となれば
「決めた者(モン)勝ち」この言葉に要約されます。


—————————————-

社長の講演その2から

●<第9回:一生の仕事を決める>
 その後、結局工場を全部売却することになるのですが、兄も自動車の仕事はもう止めまして、勤めに行きました。
会社も閉めました。 売却さえすれば、それでもう会社は解散、というところだったんです。 
私は当時何も仕事をしていませんで、夜学校に行くだけだったんです。

昼の大学に行っている連中が暇だと、早い目から誘いに来るから遊びに行って、
それで夜から学校に行って、終わったらまた遊びに行って、そんなことばかりやっていました。

ある日の朝、6時前後だったと思うのですが家に電話がかかってきました。
帝塚山の3丁目にお住まいの早嶋さんという方からでした。 
旭屋書店さんの関係の方です。 車がエンコした、と言うんです。 
それで私が行きましたら、ご主人もご一緒でした。

いつもは奥さんとしかお会いしなかったんですけどその朝はご夫婦でおられて、
教会へ行って、帰ろうと思ったらエンジンがかからなくなったとのことでした。 
それで「耕ちゃん、来て」と言われて、行ったわけです。 
私は結構器用なところがありまして、ポイントを調整して、すぐエンジンを掛かるようにしました。 

その時に早嶋社長が私に「なんで会社閉めたんや?」とおっしゃいました。
「もう自動車はあきまへんねん。 儲からへんし、仕事は大変やし、汚いし。
 あんまり社会的地位も良くないし。 夜学やけど大学を出たら勤めに行こうと思てます。
ホワイトカラーを目指してます」とかなんとか言ったんです。

若い時からものすごく生意気だったんですよね。
すると社長が、「君、僕の仕事良いと思うか?」とおっしゃったんですよ。 
旭屋書店と、宝石の旭屋さんと、それから放送局とか、もやっておられたんですよ。
だから「社長、それはもう絶対ええん違いますの?」と言いました。

すると、「いや、僕は君のほうがええと思うよ」とおっしゃったんですよ。
「どういうことですか?」と聞いたら、「僕は朝から車が動かんようになって困ってる。
そんな時に貴方が来たらその車動かせたやないか? 
そういう人に出来んこと出来て人の役に立つ、そんな仕事は素晴らしいん違う?」
というふうに言われました。

その言葉で自分の子供の頃を思い出しました。

私の小さい頃の時代というのは車がよくエンコしましたから、
夜間の出張修理というのがよくありました。
夜、父親が家に帰って来てご飯を食べていても、電話がかかってきて
「出張や、行くか」と言われたら、私は「はい」と工具箱を持って付いていくわけです。 
それで人がエンコして困っている所に父親が行って、車をチョッチョッとしたらパッツとかかる。

昔はほんとによくエンコしたんですよ。
エンコしてもそれはすぐ直せる。ちょっとしたコツなんですけどね。
それに子どもの頃はついて行ってました。 

その時父がいつも車が直った後に、
「なあ耕吉、この仕事はええやろ? 相手がよう直さんのに、わしが行ったら一発で直るんや。 
どうや。相手は喜んでたやろ?」
「うん。喜んでた」
「おまけに金までくれるねんでー」と言ってね。
父がいつも私に言っていたんですよ。

忘れていたんですけどね、
それを早嶋さんに、言われて、
「あ、そうやったなー」と思ったんですね。

 「多分仕事は何をしても一緒やよ。 
あんたはええと思って、僕みたいな仕事に憧れるのかも分からんけど、
僕は君のような仕事がいいと思うよ」と……

決して仕事に差はない、と、そういうことをおっしゃられました。

その時は本当に大切な事を教えられたような気になりました。
その早嶋さんのご主人はすでに亡くなられて、
今は緑地公園に引っ越されて、まだずっとお取引させていただいてます。 
行く度に仏様にお詣りさせていただいているのですが、
今も「素晴らしい人にその時に出会った」、と思います。

それが自分の仕事のきっかけです。

ちょうどその後、今の女房と付き合い出したんですが、
結婚するときに 「勤め人の人は嫌や。ずっと一緒に仕事したい」と、甘えられて(笑)、、、
一緒に仕事できるのが良いということだったんです。 
自分なりにそういった『きっかけ』があって、
「私の仕事はもうこれしかない」と思いました。

自分で決めたら何かふっきれた、というか……
難しいし、大変だし、社会的地位がどうとか、人がどうとかそういうのは気にならなくって、
もう私にはこの「車の世界」しかないと思いました。 
この仕事を変化して変えていっても、この仕事しかない、と自分で思ったのがこの時だったと思います。

今は「決めた者勝ち」、
そんな風に思ってます。 

それからの仕事内容は今までものすごく変わりました。
と言うより、自分で変えてきました。 
狭い、汚い工場で修理していましたけど、
「これからは販売違うか?」と思って見様見真似で車の販売もやりだしました。
「これからは輸入車やないか?」と思ったから、今は輸入車の販売のほうに特に力を入れています。

何度も言います。

いつまでも固執したらいけないかも知れませんが、もう「自分の生きる道はこれしかない」、と思った時に、何か自分が分かったような気がしたんです。 
他にしたいことがあったら、別にしたら良いわけで、自分の本業、自分の生きる道を先に決める。 
その時に教えていただいて、「この道」を決めさせてもらった、
早嶋勝さんという方には未だに感謝の気持ちに堪えません。

私も出来たら、他の人にそんな思いを残せる人生を送りたいです。


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