社長の講演その3 <5、街づくり活動二十年>
2007/10/20 想い、願い
さて、私の活動の中に「街づくり20年」があります。
地元の帝塚山で街づくり交流会というのをやっております。やっておりますというとおおげさなんですが、ある人に呼び込まれて、と言うかアドヴァイスを受けて「帝塚山街づくり交流会」というのを起こしたわけなんです。
ちょっとだけ端折って話をしますと、帝塚山の中心的な場所に中村禎二さんという日本画家の方の家がありました。亡くなられたときにそこの敷地が売られて更地になったんです。帝塚山で生まれ育った私は更地になったときに何か建つんかなと興味を持ったんです。
壁が崩されたら中に大きな看板がありまして、「帝塚山らしさって何やろ?」って書いてあったんです。「なんやこいつ?」と思ったんです。 当時、帝塚山では世代交代が進んでいて、大きな家がつぶれたらマンションが建つ、建売ができるというパターンやったんですね。ところがその跡地には残され事務所代わりの蔵と、「帝塚山らしさって何やろ?」という看板があったんです。
そこに入っていったというのがこの街づくり活動の話の始まりなんです。それが昭和58年です。サンゆ倶楽部入れていただいてから5年ぐらいたってるころで、年齢も若かったし、こちらもいろんなことができる頃やったと思うんです。
そこからとりあえず、知り合いを2人、3人集めて、3人が9人を集めて9人がさらに20人を集めて「帝塚山街づくり交流会」というのをやり出しました。最初のイベントを始めてから今年で20年になるんです。
今はこの地域には大きなイベントが3つほどありまして、5月に「帝塚山音楽祭」これは数万人を動員するぐらいのすばらしい音楽祭です。8月にやりますのが「帝塚山まつり」と言いまして、読売の『24時間テレビ』と協力してます。たまたまうちのとなりに大屋政子さんが病院を持っていたということが縁で、大屋さんと親しくなって読売テレビを巻き込んでずっとやっております。もう1つは帝塚山でゴルフの好きな人を集めて「帝塚山ゴルフカップ選手権大会」という名前で地域のゴルフコンペをやります。これは19年目です。
自分で言うのもなんですが、これらの活動は本当にすごい事です。 そういうふうなことをやってるんですけども、,,,,
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1つ言えることはですね、私は生まれついたのがたまたま帝塚山だった、というだけの事なんです。
帝塚山でも下町の小汚い、薄暗い修理工場の2階が私の生まれた場所です。今もそこの場所がうちの本社機能でして、私が生まれ育って初めて仕事をやり出した場所なんです。そしてそこが生まれて育った場所です。
そして、明治40年生まれの氏田寅吉という職人肌のガチガチの頑固親父と大正2年生まれの伊保子という気遣い性の母親、その両親に私は育ててもらったんです。
この話をするとこれだけで1時間やって、また泣いてしまうので、もしご興味があれば、ホームページに書いています、「社長の講演」とか、「会社創業の歴史」を読んでください。うちは「たこつぼのホームページ」と言われてまして、はまる人はこれにはまって、うちのファンになって頂けるようなホームページなので、もしお時間があればぜひ覗いてください。
ところで一体何を言いたいのか?
つまり私たちは生まれ落ちた環境、つまり育てて頂いた両親、ましてや場所などは自分からは何ら選択の余地のない、一方的に与えられたものなんですね。
これこそが人間最大の『ご縁』と思うわけであります。
宗教的と思われるかもしれませんがだからこそ、
『ご縁』、
両親はじめ、ご先祖さまに感謝しなければならないんですよね。