ふたたび白洲次郎さんの話。
2009/08/15 安田 和弘
こんにちわ。以前なんどかこのブログにも
紹介した白洲次郎さんの話を。
もう10年近く前になるかと思いますが、当時いつも
立ち寄っていたなじみの本屋さんで薦められ購入した
のが「風の男」という本でした。
人物については今やさまざまな所に取り上げられており今回は
書きませんが、「プリンシブル」(英国貴族風な”スジは最後まで通す”の意)
という観念に拘り続けた格好の良い人物でした。
1951年に彼が書いた文章を見つけました。
選挙を前に、少し長文ですが、下記に紹介したいと
思います。
『将来の日本が生きて行くに大切なことは、全部ならいいのだが、なるべく多くの人が、
日本の国の行き方ということを、
国際的に非常に敏感になって考えて行くことだ。
今度は、自己中心の考え方をしたら一ぺんに潰されてしまう。
北欧の国々は、小さな国であっても、文化的にも非常に高いものを出して、
大体において平和的に暮らしているが、
ああいうことの原因の一つは、国民の多くの人が、
非常に国際的に考えているためだ。
これは歴史的に言っても、地理的に言っても、
昔からそういう事情があった。
ところが日本は島国だし、それがなかった。
ところでこの国際感覚という問題だが、日本は北欧の人みたいに、
地理的の条件に恵まれてないから、これを養成する
にはやはり勉強するより他にしょうがない。
意識的に、日本というものは、世界の国の一国であるということを考えるように教育することだ。
昔の教育勅語のようにそれをしつこく頭に入れることだ。そういう方法である程度できる。
(中略)
経済人の自己陶酔もさるものだが、同じようなことが今の日本の文士にもありはしないか?
僕はそういう人の本を読んで見て感心することが唯一つだけある。
それは自分が非常に自己陶酔をしていて、
自分のその自己陶酔をそのまま読者に鵜呑みさせるという技術を持っていること、
その点だけは偉いものだ。
日本の文士が兎角そういうことに陥る原因の一つは、日本の言葉だと思う。
日本語というものは、僕はわからんけれども、綾があるとか、含みとか言って、
ものを表現するのに、、ヨーロッパ式に
いうと、正確度というものを非常に欠いている。
だから、色々な含みのあるような表現をする。
その表現に自分か先に酔っちゃうのだ。
(中略)
これは政治の人に良くあるのだが、いわゆるイデオロギーとか思想とかいうものが、
日本の政治家たちには、普通に日常話してることと全然関係が無いと言うことがいえる。
イデオロギーというものは、あくまでも自分の思想と言うものが出発点になって出来上がったものの筈だ。
ところが日本の政治家をみてるのに、なんかひょっとしたはずみに本を読んだり、
人に聞いたりしたことを全部鵜呑みにして暗記するらしい。
それが彼のイデオロギーなんだ。
彼の政治思想というものが彼にあるなら、それは別問題なのだ。
ある一つの政治イデオロギーというものを持っている人と話しをするとする。
それが資本主義であろうが、社会主義であろうが、何でもいい。
ところが個人的に話をしてるときの、その人の政治思想というものと、演説したり、
物を書いたりするときとは違っているのだ。
というのは、彼らにとってイデオロギーというものは単なる道具なのだ。
自分では思想だと思っている。
だからはっきりいえば、彼らには思想がないのだ。
その結果たとえば論争が展開された場合に、その論争というものが、両方の人が持っているいわゆる
イデオロギーから出た論争なのである。
だからいつまでも感情問題になって、喧嘩になってしまう。
というのは、両方とも、あなたの思想はこうで、それを推してゆくとこうなるじゃないか、
だからここで落ち着こう、ここまでは認めるがここまでは譲れないというような議論はありえない。
両方で別のことを言い合っている。
だから論争になれば、感情的な喧嘩のほか何も無い。
お互い言いっ放しだもの。』
私のような愚民には一票投じることしか出来ませんが、誰か「よっしゃ。任した。たのむで!」
という人が出てきて欲しいと願う豊中店の安田でした。
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