梁瀬次郎氏を悼む

2008/03/15 氏田 耕吉 (毎週金曜日)


ヤナセ名誉会長の梁瀬次郎氏が13日午前7時5分、
91歳で死去した。

私がこの業界に入って
一番感銘を受けた、業界リーダー、経営者だった。

まだ、昭和の時代、20年以上前には
全国で開催される大きなイヴェントには
よく参加され、そのご挨拶に皆が必ず鼓舞されたものである。

大阪での全員朝礼はまるで子供の頃の
学校朝礼のようでありながらも、皆が感銘を受けるものでした。

その前後に開かれる朝食会での和やかさとの
対比はすごかった。

功績から
すでに日本自動車殿堂は初代殿堂入りしておられたが、
自動車人として大きな栄誉である米国自動車殿堂にも、
日本人として5人目の殿堂入りを果たされた祝賀会では
まだまだお元気だったが、、、、、

最後にお会いしたのは、業績を持ち直し
久しぶりに開かれた東京での全国大会の表彰式会場でした。

車椅子にての登壇ながら、その場では相変わらず
皆を励ましてくださり、和まして頂けましたのに、、、

私たち、輸入車販売に携わる者としては
誠、業界のリーダーを失った思いです。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
氏田耕吉

追伸
なお、西淀川に有る
ヤナセ大阪支店のベンツショールームに
ご遺影が飾られた、との事、早速弔問に行ってきます。

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日刊自動車新聞の記事より、、

輸入車販売の草分けとして戦後の輸入車業界の拡大に大きな功績を残した
ヤナセ名誉会長の梁瀬次郎氏が13日午前7時5分、
肺炎のため入院中だった東京都港区西新橋の東京慈恵医科大学病院で死去した。

91歳だった。
通夜・密葬は近親者のみで執り行う。
喪主は未定。早ければ今月中にも社葬を開く予定。

 梁瀬氏は1916年6月28日生まれ。
本籍地は東京都千代田区三番町。

39年3月慶応義塾大学経済学部卒業と同時に
梁瀬自動車(現ヤナセ)入社、芝浦工場に勤務。

45年5月に創業者である父・長太郎氏(故人)に代わり社長に就任。
以後40年にわたって社長を務め、
ヤナセを国内最大の自動車輸入元および販売会社に成長させるなど、
わが国モータリゼーションの発展に多大な影響を与えた。

 85年12月にはいったん会長に退くが、
87年10月に復帰して93年12月まで社長を兼務。
2002年12月まで会長、亡くなるまで取締役名誉会長を務めた。

 公職では日本自動車輸入組合(JAIA)の前身である
輸入自動車協会(52年設立)の会長を約2年務め、
65年に輸入取引法に基づく公益法人に改組された
JAIAの初代理事長に就任。

その後68?75年を除く2000年5月まで27年にわたって理事長を務め、
わが国を代表する輸入車業界のの顔として幅広く活躍した。

 この功績が認められ、87年勲二等瑞宝章、93年紺綬褒章を受章。
02年に日本自動車殿堂の初代殿堂入りしたほか、
04年には日本人として5人目の米国自動車殿堂に選ばれた。



梁瀬次郎氏を悼む

 「夢とロマン」を持ち続け、かつ「気概の心」を大事にする自動車屋だった。

 いうまでもなく、日本の輸入車業界の顔として
「梁瀬次郎」の名前だけで国内はもとより海外自動車メーカー首脳にも知られたほど。

今日の日本自動車産業が世界のトップランナーに至る戦後からの過程で
多大な足跡を残した一人である。

 ヤナセの創業者梁瀬長太郎氏を継いで
終戦後の米GM車輸入販売を再開してから
ベンツ、VW、アウディ、ボルボなどの輸入販売権を獲得し
全国ヤナセ販売網を構築し「輸入車の雄、ヤナセ」を名実共に確立させた。

 また、乗用車輸入自由化時の1965年に
日本自動車輸入組合の理事長に就任し、
以来一貫して輸入車業界のリーダーとしての役割を果たしてきた。

 「自動車屋であるからにはこの自動車業界に
ベストを尽くして生きていくのが私の使命であり宿命である。
日本の花形産業である自動車輸出の将来の明暗はひとえに輸入車業界にかかっている。
輸出入の貿易不均衡、インバランス是正のためにも最大の努力を」。

76年に再び日本自動車輸入組合(JAIA)理事長に推された時に
インタビューに応えてくれた言葉である。

 以来、約30年に渡り実力者理事長として輸入車業界をけん引し、
その理念は一貫していた。

 功績は、内外から勲章を数多く受けさらに、
自動車人として大きな栄誉である米国自動車殿堂に、
日本人として5人目の殿堂入りを果たした。
日本自動車殿堂も初代殿堂入りしており「梁瀬次郎」の名は、
日本の自動車業界人として将来に渡っても残ることになろう。

 一方、輸入車ビジネスということで、
若いころから海外に渡航し「国際派」のセンスを磨くと同時に
「心をもったニッポン人で日本の活力を」と、
日本人の気概を大事にした人だった。

写真、絵画、随筆といずれも玄人はだしという
洒脱(しゃだつ)な面もあわせもっていた。

 ただ、輸入車業界は時代と共に変化した。
輸入車の雄、ヤナセ自体のビジネスも
梁瀬次郎氏が経営していた時代と大きく変わり
新たな生きる道を目指そうとしている。

 「大正生まれの俺たちは灰の町から立ち上がり
今日のヤナセを築き上げ今じゃ世界の大ヤナセ、
百年めがけてはばたけよ」とは、
梁瀬次郎氏が大好きな大正生まれの歌の替え歌である。

 まさに「後は頼むよ」と言ってるようだ。

(日刊自動車新聞社本紙主筆・編集局長 佃義夫)

2008.3.14


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